シーン9:放課後の裏門、姿を変えるモブ令嬢
ゴーン、ゴーンと。
一日の終わりを告げる、魔力を帯びた重低音の鐘の音が学園中に響き渡る。
西日を浴びた教室は、オレンジ色と深い影が入り混じるセピア色の空間へと変わっている。チョークの粉が光の筋の中でゆっくりと踊り、生徒たちは解放感に満ちた声で笑い合いながら、帰宅や放課後のサロンへの準備を始めている。
私は机の上の安っぽい羽ペンと、端が少し擦り切れたノートを、音を立てないようにゆっくりと鞄にしまい込む。
周囲からは、まだチラチラと好奇と嫉妬の入り混じった視線が飛んでくる。昼食時にエドワード殿下が私の隣に座ったという大事件の余波は、放課後になっても全く収まる気配がない。
私は背中を丸め、前髪で顔を隠すように俯きながら、ひたすらに『怯える下級貴族』の演技を続けている。
「リリア、これから図書室に行かない? 殿下のことで絡んでくる人がいたら、私が追い払ってあげるから」
鞄を抱え込んだ私の席へ、ミレーユが心配そうな顔で覗き込んでくる。
彼女の提案はとても魅力的で、そして心強い。けれど、私には放課後にやらなければならない巨大な業務が山積みになっている。
「ありがとう、ミレーユ。でも、今日は家の手伝いがあるから、まっすぐ帰らないといけないの」
私は申し訳なさそうに眉尻を下げ、力なく微笑む。
「そっか。アルフェイド家も人手が足りなくて大変なのね。……何かあったら、すぐに私を頼るのよ。絶対に一人で抱え込まないでね」
ミレーユは私の肩を軽くポンと叩き、優しい香水の匂いを残して、足早に友人たちとの茶会へと向かっていく。
彼女の背中を見送りながら、私は小さく息を吐き出す。
(ごめんね、ミレーユ。人手が足りないどころか、私の指示を待っている従業員が王都中に何千人もいるの。一人で抱え込まないでって言ってくれたけれど、私が抱えているものの総量を教えたら、きっと気絶してしまうわ)
私は鞄をしっかりと抱え直し、誰とも目を合わせないようにして教室を逃げ出す。
靴底を鳴らさないように注意しながら、夕日に染まる廊下を足早に進む。
向かう先は、豪華な馬車が並ぶ正面の馬車寄せではない。
学園の敷地の最奥、魔法植物園のさらに裏手にひっそりと存在する、錆びついた鉄格子の『裏門』だ。
廊下を抜け、中庭の芝生を横切る。
冷え込み始めた夕暮れの風が、頬を冷たく撫でていく。遠くの方から、騎士科の生徒たちが木剣を打ち合わせる乾いた音が、カンッ、カンッと規則的に響いてくる。
人影は次第にまばらになり、やがて完全に誰の気配も途絶える。
鬱蒼と茂る蔦に覆われた石壁と、蔦の隙間から辛うじて見える古びた鉄門。
それが、王都名門学園の裏門だ。
ギィィ……と、蝶番が悲鳴を上げるような音を立てて、重い鉄扉が僅かに開く。
その隙間の向こう側に、見慣れた質素な馬車と、手綱を握る老御者トマの姿を見つける。
「お待たせ、トマ」
私が門の隙間をすり抜けて声をかけると、トマは朝の『気のいい老御者』の顔をスッと消し去り、背筋をピンと伸ばして深く一礼する。
「お疲れ様でございました、会長。本日の学園での潜伏任務、異常はございませんでしたか」
トマの口調が、絶対的な忠誠を誓う部下のそれへと切り替わる。
「異常だらけよ。錬金術の授業でうっかり目立つ回答をしてしまうし、昼食時にはエドワード王太子殿下がわざわざ隣に座ってくるし。……おかげで、モブとしての私の市場価値は大暴落の危機だわ」
私は冗談めかして肩をすくめながら、馬車の扉に手をかける。
トマが僅かに目を見開き、そして深く頷く。
「左様でございますか。王太子殿下のご接触……。後ほど、情報部隊に殿下の動向を洗わせましょう」
「ええ、念のために頼むわ。彼がどこまでこちらの情報を掴んでいるか、探りを入れておいて」
私は馬車に乗り込み、重い扉を内側から閉める。
バタン、という音と共に、学園の喧騒も、風の音も、鳥の鳴き声も、全てが完全に遮断される。
この質素に見える馬車は、実は内側に最新の防音魔石と分厚い吸音材を何層にも仕込んだ、完璧な『移動執務室』だ。
外からの魔法探知を弾く結界まで張られており、見た目のボロさとは裏腹に、王族の馬車をも凌駕するセキュリティを誇っている。
私は座席に深く腰を下ろし、一つ大きく、そして深い深呼吸をする。
肺の中の空気を全て入れ替えるように。
『怯える下級貴族のリリア』という殻を、物理的に吐き出すように。
「きゅるっ!」
鞄の中で大人しくしていたルンが、私の変化を察知して勢いよく飛び出してくる。
彼は私の肩によじ登り、誇らしげに胸を張って長い尻尾を揺らす。朝の怯えた様子はどこへやら、完全に『商会主の右腕』の顔だ。
「よし、ルン。お仕事の時間ね」
私は頭の後ろで結んでいた地味なリボンを引き抜く。
バサリと、肩まである亜麻色の髪が広がる。私は鞄の奥底から、銀色に輝く精緻な細工が施されたバレッタを取り出し、髪をきつく、冷徹な印象を与えるようにまとめ上げる。
続いて、座席の下に隠された隠し収納の引き出しを開ける。
そこに入っているのは、夜の闇のように深い漆黒のベルベットで仕立てられたロングコートだ。
裏地には、銀の糸で美しく刺繍された『銀花』の紋章。
私は学園の紺色のブレザーを脱ぎ捨て、その漆黒のコートを肩に羽織る。腕を通し、銀のボタンを首元までしっかりと留める。
布地が肌に触れる冷たい感触が、私の神経を研ぎ澄ませていく。
さらに、引き出しの奥から小さな鏡と、一本の紅筆を取り出す。
昼間にあの伯爵令嬢が使っていたのと同じ、『真紅の誘惑』のプレミアムライン。
私は鏡を見つめながら、化粧気のない地味な唇に、筆で丁寧にその鮮烈な赤を乗せていく。
唇を合わせると、上質なオイルの滑らかな感触と、微かな薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
鏡の中に映っているのは、もう誰の記憶にも残らないモブ令嬢ではない。
鋭い眼光を放ち、計算高く、王都の経済の全てを掌握する女帝の顔だ。
(完璧。気配の切り替え完了)
私は鏡をしまい、座席の前に備え付けられた折りたたみ式の木製デスクを引き出す。
カチッ、と壁のスイッチを入れると、天井に埋め込まれた小さな魔力灯が、手元だけを明るく照らし出す。
「トマ、出発して。本部へ向かう間に、今日の報告書に目を通しておくわ」
「承知いたしました、会長。では、面舵を取ります」
馬車が静かに動き出す。
私はデスクの上に置かれた分厚い書類の束――トマが昼の間に商会本部から受け取ってきた本日の報告書――の封を切る。
書類の束を一瞥するだけで、数字の羅列が私の脳内に立体的な情報となって飛び込んでくる。
(ふむ。東部からの精製油の到着、予定通り完了。第三倉庫の在庫率は現在八十五パーセント。そろそろ出荷ペースを上げないと、次便の受け入れに支障が出るわね。輸送部門へ、明朝からの配送枠二割増の指示を)
羽ペンを手に取り、流れるような手つきで指示書にサインと朱入れを行っていく。
(『真珠肌石鹸』の売上報告……予想以上の初動ね。予約枠の消化率が早すぎる。このままでは三日後に品切れを起こす。市場の熱狂を冷まさないためには『品薄感』は重要だけれど、完全に供給が途絶えれば他商会の類似品に客を奪われる。……第二工房の生産ラインのうち、香水部門を一つ止めて、石鹸の製造に回しなさい)
馬車が王都の石畳を滑るように進む。
窓の外の景色が、静かな学園区から、喧騒と活気に満ちた商業区へと変わっていく。
ガヤガヤとした人々の声、客引きの怒声、鉄を打つ音。
防音の馬車の中にいても、その圧倒的な都市の鼓動が微かな振動となって伝わってくる。
(この王都は、巨大な一つの生き物だ。お金という血液が血管を巡り、物流という神経が張り巡らされている。そして、その心臓の鼓動を裏側でコントロールしているのが、私たち『銀花会議』)
私は次々と書類をめくり、決断を下し、印を押し続ける。
迷いはない。
数字は決して嘘をつかない。
私が構築した品質管理と物流のシステムは、王都の人々の生活を根底から支え、彼らの選択を支配している。
「きゅきゅっ」
ルンがデスクの端で前足を揃えて座り、私が高速で書類を処理する様子を真剣な顔で見つめている。私は羽ペンを持たない方の手で、隠し収納から取り出した最高級のローストアーモンドを一つ、ルンの口元へ運ぶ。ルンはそれを嬉しそうに両手で受け取り、カリカリと音を立てて頬張る。
「さて、本日のメインイベントの準備と行きましょうか」
私は束の一番下にあった、ひときわ分厚い羊皮紙のファイルを引き抜く。
そこには『銀花会議・第五回定例報告会』という重々しい文字が記されている。
表向きは別々の巨大組織として王都の各区画を支配している、五大商会の代表たち。
彼らはプライドが高く、それぞれに独自の利権と野心を持っている。彼らをただの圧力で従わせることは不可能だ。
彼らを束ねる唯一の絶対的な力。それは、私が提示する『圧倒的な利益』と『絶対に裏切らない信用』のみ。
馬車の車輪の音が、軽い石畳の音から、重厚な敷石を踏み締める音へと変わる。
目的地が近い。
王都の中心部から少し外れた、巨大な窓のない石造りの建物。表向きはただの大型貸倉庫として登録されている、私たちの『真の本部』。
「会長、到着いたしました。各商会の代表たちは、すでに円卓の間でお待ちかねです」
トマの声が伝声管から響く。
「ええ。ご苦労様、トマ」
私は羽ペンを置き、分厚いファイルを小脇に抱える。
深く息を吸い込み、真紅の唇の端を吊り上げて、極上の、そして絶対的な自信に満ちた『商会主』の笑みを作る。
ガチャリ、と。
トマが外から馬車の扉を開ける。
夕闇が迫る王都の冷たい風が、車内に吹き込んでくる。
(さあ、学園のモブ令嬢の時間は終わり。ここからは、私が王都の経済を回す時間よ)
漆黒のコートの裾を翻し、私は馬車のステップを力強く踏み下ろした。




