シーン8:王太子エドワードの鋭い問いかけ
「……隣、空いているだろうか?」
バリトン特有の、腹の底に響くような深く落ち着いた声。
そのたった一言が落ちた瞬間、大食堂を包んでいた数百人の喧騒が、まるで魔法で切り取られたかのように完全に消え失せる。
カチャリ、と誰かが落としたフォークの音が、異常なほど大きく鳴り響く。
私の目の前に立つのは、太陽の光を編み込んだような金糸の髪と、湖面のように深い碧眼を持つ青年。
王太子、エドワード・ルクレール殿下。
この王国の次期国王たる絶対的な権力者が、なぜか最も身分の低い生徒たちが集まる食堂の末席に立ち、その手には、私たちが食べているのと同じ『銀貨一枚の安ランチセット』が乗った木製トレイを持っている。
(な、なぜ!? 王族専用の特別個室があるはずなのに! どうしてわざわざこんな下級貴族の吹き溜まりみたいな席に、しかもその安っぽいトレイを持って立っているの!?)
私の脳内で、警報を通り越して絶望の鐘が鳴り響く。
空気のように目立たず過ごすという私の完璧なモブ計画が、王太子という最大級のイレギュラーによって根底から破壊されようとしている。
「で、殿下……!?」
向かいに座るミレーユが、信じられないものを見るように目を丸くし、慌てて椅子から立ち上がろうとする。
私も反射的に立ち上がり、最も深く、最も恭しい最敬礼の姿勢をとる。
「どうかそのまま。食事中に立たせるのは本意ではない。ただ、中央の席はどうにも香水の匂いがきつくてね。静かに食事ができる場所を探していただけだ。……ここを使わせてもらっても構わないか?」
エドワード殿下は、私たちの緊張を解くように穏やかな微笑みを浮かべる。
その視線の先には、先ほどまで大声で美容液の話をしていた上位貴族の令嬢たちがいる。彼女たちは顔面を蒼白にし、扇を落としそうなほど震えながらこちらを凝視している。
(なるほど。上位貴族たちの過剰な媚びへつらいと、強烈な香水の匂いから逃げてきたのね。……でも、よりによってなぜ私の隣なのよ!)
内心で血の涙を流しながら、私は顔を伏せたまま震える声を作る。
「も、もったいなきお言葉。私のような騎士爵家の娘の隣など、殿下の御身を汚してしまいます……」
「身分など、この食堂では関係ない。みな同じ学園の生徒だろう」
エドワード殿下は私の辞退を軽やかに受け流し、迷うことなく私のすぐ右隣の空席にトレイを置く。
ギィ、と椅子を引く音。
そして、私のすぐ真横に、王太子殿下が腰を下ろす。
ふわりと、彼から清潔な石鹸の香りと、微かな白檀の香りが漂ってくる。
上位貴族たちが競って纏うような自己主張の激しい香水ではない。極めて上質で、近づいた者にしか分からない計算された香りだ。
(……うちの商会が王宮向けに特別納入している『静寂の森』の香りね。香りの飛びが早い天然香料を、特殊な樹脂で定着させている最高級品。まさか、開発した自分が一番身近でこの香りを嗅ぐ羽目になるなんて)
私は生きた心地がしないまま、自分の皿に視線を固定する。
周囲からの視線が、文字通り無数の矢となって私の背中や横顔に突き刺さってくるのが分かる。
「なぜあんな地味な女の隣に」「殿下にすり寄るなんて図々しい」という声なき罵倒が、食堂の空気をじりじりと焦がしている。
「きゅる……?」
鞄の中で、ルンが不穏な空気を感じ取って小さく鳴く。
私は机の下で鞄をそっと押さえ込み、絶対に外に出ないようにと念を送る。
エドワード殿下は周囲の突き刺さるような視線を全く意に介する様子もなく、銀のナイフとフォークを手に取り、安物のロースト肉を切り分け始める。
所作の全てが完璧に洗練されており、同じ数百円のランチセットを食べているはずなのに、まるで王宮の晩餐会を見ているような錯覚に陥る。
「……君は、先ほどの錬金術の授業で、バルガス教授の問いに答えていた生徒だな」
不意に、真横から声が降ってくる。
ビクッ、と私の肩が不自然に跳ねる。
「は、はい……アルフェイド騎士爵家が長女、リリアと申します。先ほどは、ただのまぐれ当たりでして……」
私は首をすくめ、極力存在感を消しながら答える。
「いや、見事な洞察だった。抽出温度による成分の熱変性……王宮の筆頭錬金術師ですら、最近になってようやく気づき始めた事実だ。それを、ただの古い文献の知識だけで説明できるとは、君の父親はよほど優秀な記録を残しているのだろう」
エドワード殿下は食事の手を止めず、淡々とした口調でそう述べる。
その声には、単なる世辞ではない、底知れぬ探究心が混じっている。
(この人、すごく鋭い。私の言い訳を信じているふりをしながら、私自身の『観察眼』を値踏みしているわ)
経営者としての私の直感が、隣に座る青年の危険性を警報として打ち鳴らす。
迂闊な返答をすれば、さらに深い追求を受ける。ここは徹底的に『無知で平凡な下級貴族』を演じ切らなければ。
「恐れ入ります。ですが、私自身は錬金術の才能など欠片も持ち合わせておりません。ただの本の虫でございます……」
私が必死に話題を打ち切ろうとした、その時だった。
「そうか。ならば、専門家としての意見ではなく、一人の『実用を重んじる者』としての率直な意見を聞かせてくれないだろうか」
エドワード殿下はフォークを置き、制服の胸ポケットから小さな銀色の丸薬入れのような金属缶を取り出す。
装飾の一切ない、実用性だけを重視したその無骨な金属缶を、彼はコトリと私の目の前のテーブルに置く。
カチッ、と殿下が金属缶の蓋を開ける。
その瞬間、強烈な薬草の青臭さと、独特の土のような匂いが混ざり合った香りが鼻を突く。
向かいの席で、ミレーユが思わず鼻をひくつかせている。
だが、私の心臓は別の意味で激しく跳ね上がる。
(――『野戦用止血軟膏』の試作品第三号……!? なぜ、これを王太子殿下が持っているの!?)
それは、私が現在、密かに開発を進めている騎士団および下級兵士向けの医療品だ。
高価な液体ポーションを買えない平民の兵士や冒険者のために、どこにでも生えている安価な止血草をベースにし、蜜蝋と混ぜて固形化したもの。
まだ五大商会の幹部と、極一部の軍関係者にしかテスト品を渡していないはずの極秘プロジェクトの産物だ。
「これは、最近王都の裏側で急速に勢力を伸ばしている、正体不明の商会が作った『試作品』らしい。先日、軍の視察に赴いた際に、現場の騎士から偶然手に入れたものだ」
エドワード殿下が、碧眼を細めて金属缶の中の茶色いペーストを見つめる。
「王宮の侍医や、上位の貴族たちにもこれを見せてみた。彼らの評価は散々なものだったよ。『匂いが泥臭くて不快だ』『肌に塗るとベタつく』『こんな下品な軟膏など、高貴な騎士が使うものではない』……とね。彼らは、従来の透明で美しい液体ポーションこそが至高だと信じて疑わない」
殿下はそこで言葉を切り、ゆっくりと私の方へ顔を向ける。
「だが、私はそうは思わない。この不格好な軟膏には、何か明確な『意図』があるように思えてならないのだ。……リリア嬢。先ほどの実習で、君は見た目の美しさや権威に惑わされず、物理的な事実を見抜いた。君の目には、この泥臭い軟膏がどう映る?」
王太子の真っ直ぐな視線が、私の仮面を射抜くように見つめてくる。
(試されている。ここで『ただの臭い軟膏ですね』と答えれば、私はただの凡庸な令嬢として彼の記憶から消える。でも……)
目の前にあるのは、私が血の滲むような原価計算と成分調整を繰り返し、兵士たちの生存率を少しでも上げるために生み出した『商品』だ。
それを、現場も知らない高給取りの侍医や、安全な王宮に引きこもっている上位貴族たちに「下品だ」と切り捨てられた。
商品開発者の魂が、静かに、けれど激しく燃え上がる。
私は深呼吸を一つし、声の震えを完全に止める。
そして、あくまで『一人の一般消費者』、あるいは『元騎士の娘』という立ち位置を守りながら、冷徹な分析を口にする。
「……失礼を承知で申し上げます。この軟膏を『下品だ』と切り捨てた方々は、本物の戦場というものを、一度もご覧になったことがないのでしょうね」
私の言葉に、向かいのミレーユが「ひっ」と短く息を呑む。王宮の侍医や上位貴族を真っ向から否定する発言だ。
だが、エドワード殿下は不快になるどころか、目を僅かに見開いて私の言葉の続きを待っている。
私は金属缶の中の茶色いペーストを指差す。
「殿下、液体のポーションは確かに見た目も美しく、即効性があります。しかし、戦場で激しく動き回る兵士にとって、ガラス瓶に入った液体は『割れる』という致命的な弱点を持っています。いざという時に瓶が割れていれば、命を落とします」
私は言葉を切り、エドワード殿下の碧眼を真っ直ぐに見返す。
「ですが、この軟膏は違います。金属の缶に入っていれば、転がっても踏みつけられても割れません。そして、この泥のような『ベタつき』。これこそが最大の利点です」
「……ベタつきが、利点だと?」
「はい。液体のポーションは、深く斬られた傷口に振りかけても、血と一緒に流れ落ちてしまうことがあります。しかし、この粘度の高い軟膏なら、傷口に直接塗り込むことで、物理的に出血を塞ぐ『蓋』の役割を果たします。薬効が浸透するまでの間、兵士の血液が体外に流出するのを防いでくれるのです」
私は頭の中のプレゼン資料を読み上げるように、流れるように言葉を紡ぐ。
「さらに、この強烈な匂い。これは、あえて香料などという無駄なコストを省き、王国のどこにでも生えている安価な薬草を限界まで濃縮している証拠です。香りを良くするために高価な素材を使えば、この軟膏は一握りの部隊長しか買えない高級品になってしまう。……これは、見た目の美しさや優雅さなど全てを投げ捨て、『一人でも多くの末端の兵士を生きて帰すこと』だけを目的に作られた、極めて実用的で、計算し尽くされた『命の防壁』です」
一気に語り終え、私ははっと我に返る。
(しまった……。つい熱が入って、開発側の意図を完璧に代弁してしまった。これじゃあ、まるで……)
恐る恐るエドワード殿下の顔を見上げる。
彼は、微動だにせず私の顔を見つめていた。
その碧眼の奥に、先ほどまでの穏やかな光とは違う、鋭く、そして熱を帯びた感情が渦巻いているのが分かる。
「……素晴らしい」
殿下の口から、感嘆の吐息とともにその言葉が漏れる。
「割れない容器。流れ落ちない粘度。コストを抑えるための香り。……君の言う通りだ。これを作った者は、貴族の虚栄心など欠片も気にしていない。ただ純粋に、現場の兵士が『生き残るための機能』だけを追求している」
エドワード殿下は金属缶の蓋をカチリと閉め、愛おしむようにそれを指先で撫でる。
「私の考えは間違っていなかった。やはり、真の価値は、表面的な美しさや身分の中にはない。……リリア嬢。君のその飾らない、実用を見抜く眼力。本当に見事だ」
「も、もったいないお言葉です。私はただ、父から聞いた昔の戦場の話を思い出し、想像で申し上げただけで……」
私が必死に再び『父の受け売り』という予防線を張ろうとすると、殿下はふっと柔らかく、けれど有無を言わせぬ圧力を持った笑みを浮かべる。
「謙遜は美徳だが、君のその知性は隠しきれるものではないよ。……リリア・アルフェイド。君の名前、確かに記憶に刻ませてもらった」
そう言って、エドワード殿下はトレイの上の食事を、信じられないほどの速さと優雅さで平らげていく。
そして、ナプキンで口元を拭うと、静かに立ち上がる。
「突然押しかけて悪かったね。君たちの静かな昼食の時間を邪魔してしまった。……また、意見を聞かせてもらうことがあるかもしれない。その時はよろしく頼む」
殿下が踵を返し、大食堂の出口へと向かって歩き出す。
彼が去った後も、食堂の空気は凍りついたままだ。
遠くの方から、上位貴族の令嬢たちが憎悪に満ちた視線で私を睨みつけているのが、肌を刺すような痛みを伴って伝わってくる。
「……リ、リリア。今の、何……? 殿下、リリアのこと、すごく気に入っていたみたいだけど……」
向かいの席で、ミレーユが状況に追いつけず、ぱくぱくと口を開閉させている。
「……私にも分からないよ。ただ、とんでもなく面倒なことになったのだけは確かね」
私は深く、ひたすらに深くため息をつき、テーブルに突っ伏す。
鞄の中で、ルンが「きゅるる」と同情するように鳴いている。
(ああ、もう最悪。王太子殿下に名前を覚えられた上に、知性があるなんて評価されるなんて。私の完璧なモブ生活が、音を立てて崩れていく……!)
だが、私はこの時まだ知らなかった。
この日、私が王太子に何気なく示した『一般消費者としての冷静な分析』が、後日、王国の経済を根底から揺るがす巨大な事件において、彼が私を「唯一信頼できる取引相手」として選ぶ決定的な理由になるということを。
私はただ、突き刺さるような周囲の嫉妬の視線から逃れるように、残り時間の少ない昼休みが終わるのを、じっとテーブルに顔を伏せたまま待ち続けていた。




