シーン10:商会本部、一斉に立ち上がる幹部たち
馬車のステップを踏み下ろすと、底冷えのする夕暮れの空気が漆黒のコートの裾をふわりと揺らす。
目の前にそびえ立つのは、巨大で無骨な、窓一つない灰色の石造りの建物だ。外壁には長年の雨風に晒された黒ずみが染み付き、一部は崩れかけたように見える偽装まで施されている。
入口に掲げられた看板には、かすれた文字で『第三地区・共同貸倉庫』とだけ書かれている。王都の住人なら誰一人として足を止めない、ただの寂れた物流施設。
それが、王都の経済の心臓部たる『銀花会議』の真の本部だ。
「ルン、行くよ。しっかり掴まっていて」
私が右肩をトントンと叩くと、ルンは馬車の中から弾かれたように飛び出し、私の肩の定位置へと見事に着地する。彼は長い尻尾を私の首にぐるりと巻きつけ、マフラーのようにして冷たい風を遮ってくれる。
「トマ、馬車の整備と魔力石の充填をお願い。帰りは深夜になるかもしれないわ」
「承知いたしました、会長。滞りなく」
トマの深い一礼を背に受けながら、私は寂れた倉庫の搬入口へと向かって歩き出す。
歩幅は広く、背筋はピンと伸び、足元からは私が特注したヒールのある革靴が、カンッ、カンッと硬質でリズミカルな音を立てている。学園で履いていた、音の鳴らない安物の平底靴とは違う、経営者としての私の足音だ。
巨大な木製の搬入扉の横にある、錆びついた小さな通用口。
私はそこに取り付けられた真鍮の鍵穴に、自分の指輪――『銀花』の紋章が刻まれたミスリル製の指輪――の裏側を押し当てる。
カチリ、という微かな金属音に続いて、重々しい魔力機構が解除される振動が石壁の奥から伝わってくる。鍵穴だと思わせているのはただのダミーで、実際は指輪の魔力波長と私の生体魔力を照合する二重のロック機構が働いている。
ギィィ……と、分厚い鉄の扉が内側へと開く。
私は一歩踏み出し、建物の中へと足を入れる。
その瞬間、外の冷たく淀んだ空気は一変する。
(……この匂い。インクと羊皮紙、そして微かに焦げた魔力石の匂い。私が一番落ち着く場所の匂いね)
通路を抜けた先に広がるのは、外観の寂れ具合からは到底想像もつかない、広大で高度に組織化された巨大な執務空間だ。
体育館ほどもある広いフロアの天井には、太陽の光を再現する特殊な大型魔力灯が等間隔で設置され、昼間のように明るく、そして目に優しい光で空間全体を照らし出している。
床には足音を吸収する厚手のコルク材が敷き詰められ、無数に並んだデスクの間を、揃いのグレーの制服を着た職員たちが目まぐるしく行き交っている。
「第一倉庫からの納品書、確認急いで!」
「南区の香水店から追加発注です! 在庫の引き当てを!」
「東街道の関所で馬車が三台足止めされているという報告が上がっています。至急、迂回ルートの算定と護衛の再配置を!」
飛び交う声は活気に満ち、誰もが自分の役割を完璧に理解し、秒単位で動いている。
壁際にずらりと並んだ魔力通信機からは、ピピピ、という微かな着信音が絶え間なく鳴り響き、王都中の店舗や倉庫、さらには地方の生産拠点からのリアルタイムな情報が滝のように流れ込んでいる。
ここは、王都の物流、価格、品質の全てを裏から支配する中枢神経。
私が前世の記憶と知識を総動員して作り上げた、完璧な情報処理と意思決定のシステム空間だ。
私は立ち止まることなく、フロアの中央を貫く幅広の通路を、コツン、コツンとヒールの音を響かせながら真っ直ぐに進んでいく。
その足音に、最初に気づいたのは、通路の一番手前で書類の束と格闘していた若い事務員だった。
彼は顔を上げ、漆黒のコートを翻して歩く私の姿を視界に捉える。
瞬間、彼の顔から疲労の色が吹き飛び、ハッとしたように姿勢を正す。
「か、会長!」
彼が発したその短く鋭い声は、まるで水面に落とした一滴の雫の波紋のように、巨大なフロア全体へと瞬く間に伝播していく。
ピタリ、と。
さっきまでフロアを満たしていた怒号のような喧騒が、嘘のように一瞬で静まり返る。
魔力通信機の電子音と、羊皮紙が擦れる微かな音だけが残る空間。
デスクに向かっていた百人以上の職員たちが、書類から目を離し、羽ペンを置き、一斉に立ち上がる。彼らの動きには一切の無駄がなく、まるで統率の取れた軍隊のようだ。
私は歩みを緩めない。
フロアの奥、一段高くなった場所に設けられたガラス張りの役員会議室――『円卓の間』へと向かって進み続ける。
私が通路を進むにつれ、両脇に立つ職員たちが、まるでモーゼの海割れのように深く、そして美しい角度で一礼していく。
「お疲れ様でございます、会長」
「お待ちしておりました、会長」
囁くような、けれど深い敬意と熱を帯びた声が、波のように私を包み込んでいく。
(……ああ。やっぱり、これなのよね)
私は無表情を保ちながらも、内心で極上のカタルシスに震えている。
たった一時間前まで。
私は学園の冷たい廊下の端を歩き、上位貴族の令嬢たちから「みすぼらしい」「平民同然」と嘲笑われていた。錬金術の授業では、私の知識を「たまたま本で読んだだけのまぐれ」として必死に隠さなければならなかった。食堂では、王太子の登場に怯え、存在感を消すためにテーブルに突っ伏していた。
だが、ここでは違う。
家柄も、爵位も、歴史も関係ない。
私が生み出した数字、私が構築したシステム、私が導き出した利益。その確固たる『結果』だけが、私をこの場所の絶対的な頂点へと押し上げている。
彼らは、私が『騎士爵令嬢』だから頭を下げているのではない。
私が、彼らの生活を保証し、商会を未曾有の繁栄へと導く『絶対的な知の象徴』であると知っているから、自らの意思で敬意を払っているのだ。
「きゅるっ!」
肩の上のルンが、自分まで偉くなったかのように胸を反らし、誇らしげに鳴き声を上げる。
私は視線を通路の先へ固定したまま、右手を軽く上げて職員たちに「作業に戻れ」と無言の合図を送る。
その瞬間、再びフロアには活気あふれる喧騒が戻る。まるで一時停止していた巨大な歯車が、私の手の動き一つで再び力強く回り始めたかのようだ。
通路の突き当たり、ガラス張りの『円卓の間』の扉の前に、一人の長身の男性が立っている。
白髪交じりの髪を後ろで隙なく撫でつけ、銀縁の眼鏡の奥に鋭い知性を宿した瞳。仕立ての良い濃紺のスーツを完璧に着こなす彼は、私がこの商会を立ち上げた初期から右腕として働く、物流および総括責任者のベルノだ。
彼は私が近づくのを見ると、完璧な角度の礼を一つし、重厚なガラス扉を開け放つ。
「お待ちしておりました、リリア会長。五大商会の代表たちは、すでに円卓に着いております。本日の業績報告、および次期戦略会議の準備は全て整っております」
ベルノの落ち着いた、しかし僅かに熱を帯びた声が響く。
「ありがとう、ベルノ。各部門の数字の集計に遅れはないわね?」
「はい。全て最新のデータに更新済みです。会長が学園から戻られる前に、不審な誤差は全て私が弾いておきました」
「素晴らしいわ。さすが私の右腕ね」
私は小さく笑みを浮かべ、円卓の間へと足を踏み入れる。
部屋の中央に鎮座する、巨大な黒檀の円卓。
その周りを取り囲むように座っていた五人の男女――王都の各地区を牛耳る『五大商会』のトップたち――が、私の姿を見た瞬間、椅子を蹴るような勢いで一斉に立ち上がる。
彼らは皆、貴族でさえ頭を下げるほどの大商人たちだ。
富も、名声も、狡猾さも兼ね備えた、一筋縄ではいかない狸ばかり。
しかし今、彼らは私という一人の少女の前に立ち、誰よりも深く頭を垂れている。
「会長! 本日もお越しいただき、光栄の至りに存じます!」
「我が『ガルド商会』、今月も会長の御指南の通り、過去最高の利益を叩き出しましたぞ!」
「『白百合の商会』の新作石鹸、会長の仰った通りの販売戦略で、王都中の貴族令嬢を虜にしております!」
口々に、興奮と称賛の言葉が飛んでくる。
私は彼らを一瞥し、ゆっくりと円卓の最奥――唯一用意された、背もたれの高い豪奢な革張りの椅子へと歩みを進める。
漆黒のコートを翻し、私はその椅子に深く腰を下ろす。
右足を組み、両手をテーブルの上で組んで、ゆっくりと彼らを見渡す。
真紅のルージュを引いた唇で、私は氷のように冷たく、そして絶対的な力を持った微笑みを作る。
「座りなさい。さあ、私を楽しませる数字を見せてもらうわよ」
私のその低い声が響いた瞬間、部屋の空気がピンと張り詰める。
学園のモブ令嬢の時間は完全に終わりを告げた。
ここから先は、王都の経済を支配する絶対女王の、冷酷で熱狂的な業務報告の時間が始まるのだ。




