シーン5:本物の海神(リヴァイアサン)と、究極の再保険(セキュリティ)
保険金詐欺の摘発から数日後。
王都の経済は『銀花海上保険』という完璧なシステムによって、かつてないほどの好景気と安定を享受していた。商人たちは安心して海へ繰り出し、莫大な富と保険料を私の金庫へ運び続けている。
「ふふふ……今日も帳簿の数字が美しいわ。これこそが、資本主義が到達した究極の平和ね」
私は頭取室のふかふかのソファに沈み込みながら、右肩上がりのグラフを見てうっとりと目を細めていた。
しかし、私の平穏な午後は、またしてもけたたましい足音によって破られることとなる。
「か、会長ぉぉぉっ!!」
扉を突き破らんばかりの勢いで飛び込んできたのは、またしてもベルノだった。彼の眼鏡はズレ、その顔には過去最大の絶望が張り付いている。
「またなの? 今度は誰が丸太を積んで沈んだのよ」
私が呆れ顔で尋ねると、ベルノは首を激しく横に振った。
「違います! 今度は詐欺ではありません、本物の未曾有の大災害です!! ……南の海峡に、数十頭の『巨大海竜』の群れが出現しました!!」
「……は?」
私は持っていた万年筆を取り落とした。
「数十頭!? 海竜って、数年に一頭現れるかどうかの伝説の魔物じゃないの!?」
「それが、どうやら海峡の底に住む『海人族』たちが、自分たちの縄張りを荒らす人間たちに激怒し、守り神である海竜たちを操って『海上封鎖』を宣言したようなのです!」
ベルノはガクガクと震えながら、最悪の報告を口にした。
「現在、南の海峡には我が銀花銀行の保険に加入した大型商船が『五十隻』以上足止めを食らっています。もし交渉が決裂して彼らが一斉に沈められれば……」
「保険金の支払い総額は『数十億リーブル』……。うちの保険プール(基金)が完全に吹き飛んで、銀花銀行が連鎖倒産するわね」
私はスッと立ち上がり、一瞬で頭を金融覇王の思考回路へと切り替えた。
確率と統計でカバーできるのは、あくまで『日常的な事故』だけだ。今回のような、一極集中の破滅的な大災害が起きれば、いくら保険料を集めていても支払いが追いつかずにシステムが崩壊してしまう。
「会長、どうしますか!? 直ちに王国軍に要請して、海人族の討伐艦隊を出させますか!?」
「駄目よ。軍隊の準備なんて数週間はかかるし、何より戦争になれば海はもっと荒れる。私たちの船が沈むリスクが跳ね上がるだけよ」
私は漆黒のコートを羽織り、ルンを小脇に抱え上げた。
「相手が知性のある『海人族』なら、話は別よ。彼らには彼らの『経済』があるはず。……私が直接出向いて、交渉をするわ」
***
数時間後。
私は王都の港から、銀花商会の誇る最高速度の魔導高速船に乗り込み、問題の南の海峡へとやってきていた。
「ひぃぃ……! な、なんだあれは……!」
同行したベルノが、甲板でへたり込む。
目の前の海域には、まるで山脈のように巨大な海竜たちが何十頭も鎌首をもたげ、海面を黒く埋め尽くしていた。その中央の岩礁には、青い鱗とヒレを持つ美しい海人族の戦士たちが、槍を構えて待ち受けている。
『人間どもよ! これ以上、我らが聖なる海を汚すことは許さぬ! 直ちに船を捨てて立ち去れ、さもなくば海竜の餌食としてくれる!』
岩礁の頂上に立つ、王冠を被った海人族の女王が、魔力を込めた声で海中に響き渡る警告を発した。
「……なるほど。完全にブチギレてるわね」
私は高速船の舳先に立ち、海風にコートを靡かせながら、拡声の魔導具を手に取った。
「ごきげんよう、海の女王陛下! 私は銀花銀行会長、アルフェイドと申します!」
私の声に、女王が鋭い視線を向けてくる。
『銀行だと? 我々は商人の戯言に耳を貸すつもりはない! 貴様らの船が落とすゴミと、乱獲によって、我々の海の食料は枯渇しつつあるのだ!』
「ええ、その損害には心から同情いたしますわ。ですから、私は戦いに来たのではありません」
私はニヤリと、商会主としての悪魔的な笑みを浮かべた。
「女王陛下。あなたたち海人族に、『究極の不労所得』を提案しに参りました」
『……不労所得、だと?』
女王が怪訝そうに眉をひそめる。
私は拡声器を通して、朗々とプレゼンテーションを開始した。
「あなたたちが船を沈めても、手に入るのは木の板と海水に濡れたゴミだけ。何の利益もありません。……そこで、我が銀花銀行と『再保険および警備契約』を結びませんか?」
「さ、再保険……?」
背後でベルノが息を呑む。
「ええ。我が銀花銀行は、商人たちから集めた莫大な『保険料』を持っています。その中から、毎月定額で、最高級の陸の食料(ブランド牛や新鮮な野菜)を、あなた方海人族へ『警備料』としてお支払いいたします」
私はドンッと船の手すりを叩いた。
「その代わり、あなた方の操るその『海竜』たちを、我が銀花銀行の保険に加入している船の『専属護衛』として雇わせてくださいな」
『我らが海竜を、人間の船の護衛にしろだと……!?』
「そうです。他の野良の魔物や海賊が来たら、海竜で追い払ってもらう。……あなたたちは海を封鎖して無駄な争いをする代わりに、ただ海竜を泳がせているだけで、毎日最高級の食料(富)が安定して手に入るのですよ?」
女王は絶句した。
海人族にとっても、人間との全面戦争は血を流すリスクの高い行為だ。食料不足が原因で怒っていた彼らにとって、「戦わずに美味い飯が永遠に提供される」という提案は、あまりにも魅力的な劇薬だった。
「さらに! 万が一、私たちの船が沈んでしまった場合は、あなたたちに支払う警備料から損害分を天引き(ペナルティ)させていただきます。……これを経済用語で『再保険(リスクの転嫁)』と呼びますわ」
要するに、銀行が抱える「莫大な保険金支払いリスク」を、海竜という絶対的な武力を持つ海人族に「警備費用」という形で丸投げ(アウトソーシング)したのである。
『……っ』
女王は海竜たちを見回し、そして豊かな陸の食料という誘惑に、ゴクリと唾を飲み込んだ。
『……よ、よかろう。ただし、肉は月に牛百頭分だ。一切の遅延は許さぬぞ』
「交渉成立ね。末長いお付き合いをお願いいたしますわ、女王陛下」
私は優雅にカーテシーをして見せた。
「……信じられません」
甲板にへたり込んだままのベルノが、眼鏡を震わせながら呟く。
「大自然の理不尽そのものである海神まで、資本主義のシステム(再保険)に組み込んで、金で雇い入れてしまうなんて……」
「これが『経済の力』よ。人間だろうが魔物だろうが、利益の前に逆らえる生き物なんていないの」
私は満足げに微笑み、足元で「きゅんっ!」と鳴くルンを抱き上げた。
これで、銀花海上保険は『海神による絶対的な護衛』というチート級のオプションまで手に入れた。もはやこの海で、私の保険システムを脅かすものは何一つ存在しない。
大自然の猛威すらも証券化し、社員として飼い慣らす。モブ令嬢のえげつない無血開城は、こうして海の底まで完全に支配下に置いたのである。




