シーン4:偽装沈没(保険金詐欺)と、深淵の損害調査員(アジャスター)
保険取引所『銀花珈琲館』の設立からさらに数週間が経過した、ある日の午後。
私が頭取室で、秋の新作である『完熟葡萄のタルト』の甘酸っぱい果汁を堪能していると、一階の窓口から鼓膜を突くような怒声が響いてきた。
「ええい、責任者を出せ! 俺の船は魔の海域でクラーケンに沈められたんだ! 保険の契約通り、ただちに積み荷の代金『金貨五千枚』を全額支払え!!」
窓口で大声で喚き散らしているのは、王都でも中堅の規模を誇る海運商会の主、ギデオンだった。
彼は真っ赤な顔でカウンターを叩き、対応している行員に唾を飛ばして保険金の支払いを要求している。
「……また面倒なのが来たわね。せっかくのタルトの味が落ちるじゃない」
私はタルトの最後の一口を名残惜しく飲み込むと、ため息をつきながら一階のVIP応接室へと向かった。
「お待たせいたしました、ギデオン会頭。銀花銀行会長のアルフェイドです」
私が応接室に姿を現すと、ギデオンは十六歳の小娘を舐め腐ったような、傲慢な態度でふんぞり返った。
「おお、あんたか。話は早い。先日、南へ向かわせたうちの商船『黄金カモメ号』が、帰りの航海で海のバケモノに襲われて沈没した。……高い保険料を払ってやったんだ、さっさと金貨五千枚を出してもらおうか!」
「お気の毒に。船員の方々はご無事でしたか?」
私が尋ねると、ギデオンはわざとらしくハンカチで目元を拭った。
「ああ、命からがら救命ボートで逃げ延びたそうだ。だが、最高級の絹織物を満載した船は海の底さ。……さあ、銀花銀行は『100%全額補償』が売りなんだろう? 支払い渋りなんてしたら、取引所の商人たちが黙っちゃいないぜ?」
ギデオンの顔には、「どうだ、この完璧な事故報告の前では、いくら悪魔の銀行でも金を払うしかないだろう」という下劣な優越感が張り付いていた。
「ええ、もちろん。本当に『不慮の事故』であれば、即座にお支払いいたしますわ」
私は優雅に微笑み、応接室の扉に視線を向けた。
「ガストン、調査の結果は?」
「へへっ。バッチリ裏は取れてまさぁ、会長」
扉を開けて入ってきたのは、銀花銀行の『損害調査員』のトップを務める巨漢のガストンだった。彼の服は潮水で濡れており、その手にはズシリと重い麻袋が握られている。
「な、なんだお前は……! 調査だと?」
ギデオンがいぶかしげに眉をひそめる。
ガストンは無言で、手にした麻袋をドサァッ!とテーブルの上にひっくり返した。
中から転がり出てきたのは、最高級の絹織物……ではなく、海水をたっぷり吸い込んだ『ただの丸太と石ころ』の山だった。
「……こ、これは……」
ギデオンの顔から、スッと血の気が引く。
「ギデオンの旦那。あんたの商船が沈んだっていう浅瀬を、うちの暗部が水中の魔法薬をガブ飲みして潜って調べてきたぜ」
ガストンはニヤリと笑い、濡れた丸太を指差した。
「沈んでた船の船倉には、絹織物なんて欠片もなかった。代わりに、重さを誤魔化すための大量の丸太と石ころが積まれてたよ。おまけに、船底には『内側から斧で叩き割った』不自然な穴がポッカリ開いてたぜ」
「なっ……! ば、馬鹿な! そ、それは何かの間違いだ! クラーケンが……!」
「往生際が悪いわね」
私は氷のような冷ややかな声で、ギデオンの言葉を遮った。
「あなたの船は最初から空っぽ(ダミー)だった。出航直後に、秘密の入り江で積み荷の絹織物をこっそり降ろして隠したのよ。そして船員たちに命じて、船底に穴を開けて『意図的に沈没』させた」
私はベルノが用意したもう一つの書類――ギデオンの従兄弟が所有する隠し倉庫の捜索礼状を突きつけた。
「隠してあった絹織物は、全て我が銀花銀行の暗部が押収したわ。……あなたは、積み荷を闇市場で売り捌きつつ、うちの銀行からも保険金を騙し取ることで、二重の利益を得ようとしたのよ。いわゆる『保険金詐欺』ね」
「ひぃっ……!!」
完全な証拠を突きつけられ、ギデオンは椅子から転げ落ちた。
保険という絶対的な盾を悪用し、意図的に事故を起こして金を掠め取る。これこそが、保険制度における最悪の倫理崩壊の極致だ。
「た、頼む! 出来心だったんだ! 保険金は諦めるから、どうか見逃して……!」
「見逃す? 冗談でしょう」
私は立ち上がり、床に這いつくばるギデオンをゴミでも見るような目で見下ろした。
「あなたがやろうとしたことは、ただの詐欺じゃないわ。『保険』という、商人全員が少しずつお金を出し合って作った『助け合いのプール(基金)』に泥を投げ込み、他の真面目な商人たちの安心を奪う行為よ。……万死に値するわ」
私はガストンに顎で合図をした。
「ギデオン商会の口座を全て凍結。保険契約は即刻解除(ブラックリスト入り)とし、詐欺の違約金として彼の全財産および、隠していた絹織物を没収しなさい。……一文無しになった後は、王国の衛兵に突き出して詐欺罪でブタ箱行きよ」
「ヒィィィィッ!! お助けをぉぉぉ!!」
絶叫するギデオンがガストンに首根っこを掴まれ、応接室から引きずり出されていく。
***
「……見事な手際です、会長。これで『銀花銀行を騙そうとすれば、海の底まで調べ上げられて破滅する』という噂が、市場中に知れ渡るでしょう」
騒ぎが収まった後、ベルノが眼鏡を押し上げながら感嘆の息を漏らした。
「当然よ。保険というビジネスは『信用』が全て。少しでもズルをする奴を許せば、真面目に保険料を払っている人たちが馬鹿を見るシステムになっちゃうんだから」
私は冷めた紅茶を新しく淹れ直させながら、肩をすくめた。
「審査官で事故を未然に防ぎ、損害調査員で詐欺を徹底的に摘発する。この二つの防壁があって初めて、保険というシステムは完璧な不労所得の装置として完成するのよ」
「恐ろしいことです。自然の理不尽すらも克服し、人間の悪意すらも契約と調査で完全に制圧してしまう。……もはや、この世に会長の経済圏を脅かすものは何一つ存在しませんね」
「ええ。これでやっと、安心して午後のお昼寝ができるわ」
私は新しく運ばれてきた二個目の『完熟葡萄のタルト』にフォークを突き立てた。
海神の気まぐれも、強欲な商人の悪意も、モブ令嬢の冷徹な金融魔術の前にはただの『数字と確率』に過ぎない。
世界で最も強固な「見えない盾」を手に入れた商人たちは、今日も銀花銀行のために、海の果てまでせっせと富を運び続けるのだった。




