シーン3:商人のモラルハザード(倫理の欠如)と、冷酷なる審査官
『銀花海上保険』の設立から一ヶ月後。
王都の港に面した一等地に、私は新しく『銀花珈琲館』という施設をオープンさせていた。
「ん〜、淹れたてのコーヒーと、焼きたてのバタークッキーの組み合わせは最高ね。港の景色を眺めながらのティータイム、控えめに言って完璧だわ」
珈琲館の二階、海風が心地よく吹き抜けるVIPテラス席。
私はルンのお腹を撫でながら、優雅に午後の休憩を満喫していた。
一階の広々としたフロアでは、コーヒーの香りが漂う中、王都中の商人たちがテーブルを囲み、熱心に商談や情報交換を行っている。
壁には巨大な黒板が設置され、各海域の天候、海竜の出没情報、そして『本日の保険料率』がリアルタイムで書き込まれていた。ここは単なるカフェではなく、商人たちが保険の契約を結び、リスクを取引するための『保険取引所』の役割を果たしているのだ。
「聞いたか? 俺の商会、今度はあえて『海竜の巣』に近い東の危険海域ルートを通ることにしたんだ!」
「おいおい、正気か!? あそこは沈没率が三割を超える魔の海域だぞ!」
「だからいいんじゃねえか! もし無事に着けば香辛料は独占状態でボロ儲け。万が一沈んでも、銀花銀行の『保険』が全額補償してくれるからノーダメージだ! ガハハハッ!」
一階から聞こえてくる商人たちの豪快な笑い声。
それまで海を恐れていた商人たちは、保険という『絶対的な盾』を手に入れたことで、かつてないほど攻撃的にビジネスを展開し始めていた。
「……随分と景気のいい話ですね」
私の背後に控えていたベルノが、銀縁眼鏡をスッと押し上げながら、ひどく冷え切った声で呟いた。彼の手には、今月の保険事業の収支報告書が握られている。
「会長。商人たちが活気づくのは良いことですが……少々、問題が発生しております」
「沈没する船の数が増えたんでしょう?」
私がクッキーを齧りながら尋ねると、ベルノは重々しく頷いた。
「はい。保険制度を開始して以降、船の沈没や事故による『保険金支払い』の件数が、当初の予測(1%)を上回り、3%近くまで跳ね上がっています」
ベルノは報告書をパラパラと捲る。
「原因は明白です。商人たちが『どうせ沈んでも全額補償される』と高を括り、ボロボロの老朽船を使ったり、人件費をケチって素人の船長を雇ったり、あえて台風の時期に出航したりと……信じられないほど『無謀で杜撰な航海』を始めているのです」
「いわゆる『モラルハザード(道徳的危険)』ね」
私はコーヒーカップをソーサーに置き、呆れたようにため息を吐いた。
「自分の腹が痛まないとなれば、人間はどこまでもリスクに鈍感になる。保険が彼らの緊張感を奪ってしまったのよ。……まあ、予想はしていたけれど」
「予想していたなら、どうして放置を!? このままでは保険金の支払いが膨れ上がり、我々の保険プール(基金)が赤字に転落してしまいます!」
ベルノが焦りの色を浮かべる。
「放置なんてしないわよ。商人が知恵を絞ってシステムを悪用しようとするなら、私たちはその上を行くシステムで彼らの首を絞める(・・・・)だけよ」
私はテラスから一階のフロアを見下ろし、パチンッと指を鳴らした。
それを合図に、珈琲館の奥の扉から、いかつい顔をした数名の男たち――ガストン率いる暗部の面々が、分厚いバインダーを手にして現れた。
「おい、あんた。さっき『東の危険海域を通る』って言ってたな」
ガストンが、先ほどまで豪快に笑っていた商人の肩をポンと叩く。
「な、なんだよ。俺はちゃんと2%の保険料を払って……」
「今日からルールが変わったんだよ」
ガストンはバインダーをバンッとテーブルに叩きつけた。
「俺たちは銀花銀行の『保険引受審査官』だ。あんたの船と航海計画をチェックさせてもらったぜ。……船体は十年落ちのボロ船、船長は経験不足の素人、おまけにルートは海竜の巣のド真ん中。リスクが高すぎる」
ガストンはニヤリと笑い、商人に向けて残酷な数字を突きつけた。
「あんたの船の保険料は、2%じゃねえ。……『30%』だ。払えないなら、保険の契約は打ち切りだ。沈んだら自分で借金を抱えて自己破産しな」
「さ、さささ、30%!? そんな法外な保険料を払ったら、利益なんて一銭も残らないじゃないか!!」
商人が悲鳴を上げる。
「だろうな。なら、立派な新しい船を買って、腕利きの船長を雇って、安全なルートを通ることだ。そうすれば、保険料は元の『2%』に割引してやるよ」
一階のフロアが、水を打ったように静まり返った。
商人たちは悟ったのだ。銀花銀行はただお金を払ってくれる「都合の良い財布」ではなく、自分たちの航海の安全性を徹底的に監視し、評価する「冷酷な支配者」なのだと。
「……見事です、会長」
テラス席でその光景を見ていたベルノが、感嘆の息を漏らす。
「リスクに応じて保険料を変動させる。これにより、商人たちは保険料を安く抑えるために、自ら進んで船を修理し、安全な航海を心がけるようになる。結果として、海難事故そのものが激減し、我々の保険金支払いは最小限に抑えられますね」
「そういうこと。安全はお金で買えるのよ」
私は残っていたクッキーをルンの口に放り込み、優雅に立ち上がった。
「これからは、出航前の船を厳しくチェックする『審査官』と、実際に事故が起きた時に不正がないか調べる『損害調査員』の二つの部門をフル稼働させるわよ」
もし「わざと船を沈めて保険金を騙し取ろう」などと考える輩がいれば、ガストン配下の恐ろしい調査員たちが地の果てまで追いかけ、海の底に沈めることになるだろう。
「ふふっ。これで商人たちは、私の作った『保険』という見えない鎖に繋がれたまま、安全第一で真面目に働き続けるしかないわ。私の平和なティータイムは、こうやって守られるのよ」
「……会長の怠惰を守るために構築されるシステムが、日に日に巨大かつ堅牢になっていきますね」
ベルノの呆れたような呟きを背に受けながら、私は満足げに珈琲館のテラスを後にした。
自然の脅威も、人間の悪意も、全てを数字と契約で縛り付ける。モブ令嬢の金融帝国は、いかなる隙も許さない完全無欠の要塞へと進化を遂げていた。




