シーン2:絶望の債務者と、安心(リスク)の販売
銀花銀行の特別応接室。
そこには、王都の経済を牽引してきたはずの『三大商会』の会頭たちが、床に額を擦り付けて号泣する凄惨な光景が広がっていた。
「……申し訳ございません、アルフェイド会長! 船が、全財産を積んだ船団が、海竜のせいで海の藻屑に……っ!」
「我々の商会は完全に破産です! どうか、借金のカタに私や家族を奴隷として売り飛ばしていただいて構いません! それで少しでも返済の足しに……!」
立派な髭を蓄えた初老の男たちが、プライドも何もかも投げ打って命乞いをしている。
彼らにとって、一億リーブルという借金は、一族郎党が何代にもわたって働き続けても返せるかどうかという絶望的な金額だった。
「……奴隷として売る? 呆れたわね」
私は呆れ返りながら、ティーカップをソーサーにコトリと置いた。
「初老のオジサン三人を奴隷市場に売り払ったところで、せいぜい銀貨数枚にしかならないわ。そんな非効率な債権回収、うちの銀行がするわけないでしょう」
「ひぃっ……! で、では我々は一体どうやって落とし前を……!?」
「まあ、泣き止んでそこに座りなさいな。話が進まないわ」
私が冷たく促すと、三人の会頭はビクビクしながらソファの端に腰を下ろした。
私は背後に立つベルノに合図を送り、部屋の前に巨大な黒板を運び込ませた。
「あなたたちが今回破産したのは、全財産をたった一回の航海に賭けたからよ。海竜の襲撃や大嵐という『絶対的なリスク』がある海において、それはあまりにも愚かな行為だわ」
私はチョークを手に取り、黒板に『船』の絵を百隻分、ざっくりと描いた。
「いい? 過去の王国の海運データによれば、南の海へ向かった船が事故や魔物で沈没する確率は、大体『1%(百隻に一隻)』よ。……つまり、残りの九十九隻は、無事に莫大な利益を持って帰ってくる」
私は百隻のうちの一隻に、バツ印をつけた。
「でも、誰の船がその『不運な一隻』になるかは、航海が終わるまで誰にも分からない。だから商人たちは皆、夜も眠れないほど怯えながら船を出す。……そこで、私が提案する新しい仕組みがこれよ」
私は黒板のバツ印の横に、『銀花海上保険』と大きく書き殴った。
「これからは、海を渡る全ての商人たちに、出航前に積み荷の総額の『2%』を、我が銀行へ『保険料』として支払ってもらうわ」
「保険……料? 2%の現金を、ただ銀行に差し出すのですか?」
会頭の一人が、涙目で首を傾げる。
「ただ差し出すわけじゃないわ。もしあなたの船が無事に帰ってきたら、その2%は銀行の利益としてそのまま没収よ」
「ええっ!? そ、それでは我々が損をするだけでは……!」
「最後まで聞きなさい」
私はチョークの先で、ドンッと黒板を叩いた。
「その代わり。もしあなたの船が海竜に沈められたり、嵐で遭難したりして『全損』した場合。……我が銀花銀行が、積み荷と船の損害額を『100%全額、現金で補償(お支払い)』してあげるわ」
「……っ!!」
三人の会頭だけでなく、控えていたベルノやガストンまでもが、信じられないというように息を呑んだ。
「ひゃ、100%全額!? つまり、船が沈んでも、借金を抱えることなく、元手がそのまま戻ってくるということですか!?」
「そういうことよ。あなたたちは事前に『2%のコスト』を払うだけで、万が一の時に自己破産する絶対的な恐怖から解放される。……私があなたたちに売るのは、お金じゃない。絶対に破滅しないという『安心(リスクの肩代わり)』よ」
これが損害保険の神髄。
「一人の致命的な不運」を、「九十九人の小さなコスト」でカバーする、資本主義における究極の防衛システムである。
「し、しかし会長……! それでは銀行側が丸損をしてしまうのではありませんか!?」
ベルノが慌てて口を挟む。
「もし一億リーブルの船が沈んだら、銀行は一億リーブルを支払わなければなりません! いくら事前に2%の保険料をもらっていても、計算が合いませんよ!」
「ベルノ、マクロ(全体)で見なさい」
私は黒板の百隻の船を丸で囲んだ。
「百隻の船から、それぞれ2%の保険料を徴収する。合計で『200%分』の資金が保険のプール(基金)に貯まるわね? ……そして、実際に沈む船の確率は1%(一隻)よ」
私はニヤリと、冷酷なまでに計算し尽くされた商会主の笑みを浮かべた。
「一隻分の損害(100%)を支払っても、私たちの手元には、まだ『100%分』の莫大な保険料が利益として丸々残るのよ。……私たちは海竜と戦うことなく、ただ確率と統計を管理するだけで、永遠に儲かり続ける仕組みなの」
「あ……」
ベルノの優秀な頭脳が、その悪魔的かつ完璧な数学的裏付けを理解し、絶句した。
「ま、まさに魔法だ……。物理的な大事故すらも、数字の集積によって利益に変えてしまうなんて……!」
「きゅんっ!」
ルンが、黒板に描かれたバツ印の船を消すように、ポンポンと跳ねる。
「さて、と」
私はチョークを置き、未だに呆然としている三人の会頭たちを冷ややかに見下ろした。
「本来なら、保険に加入していなかったあなたたちは完全に自己破産よ。でも、私は優しいから、今回沈んだ一億リーブルの負債は『特別に』全額免除してあげるわ」
「ほ、本当ですか!? おお、アルフェイド会長……あなたは女神だ!!」
三人の会頭が、再び泣きながら私の足元にひれ伏そうとする。
「ストップ。もちろんタダじゃないわ」
私は彼らの前に、新しく作成した分厚い契約書を放り投げた。
「あなたたちの商会は、今日から我が『銀花銀行』の完全な傘下に入りなさい。そして、今後あなたたちが出航させる全ての船、全ての積み荷において、我が銀花海上保険への加入を『永久に義務化』するわ」
彼らはもはや、一瞬の躊躇いも見せなかった。
自己破産して路頭に迷うことに比べれば、利益の数パーセントを安全代として納め、銀花銀行という絶対的な庇護の下で商売を続ける方が、何万倍もマシだと骨の髄まで理解したのだ。
「よ、喜んでサインさせていただきます……! 一生、銀花銀行のために働きます!」
かくして、王都最大の海運業者たちは、自らの意志で私の差し出した「保険」という名の見えない鎖を首に巻きつけた。
「ベルノ。直ちに王都の全商人に向けて通達を出しなさい。今後、我が銀花銀行から『事業資金の融資』を受ける場合、この損害保険への加入を絶対条件とする、とね」
「承知いたしました。……これで商人たちは、沈没や火事のリスクを恐れることなく、さらに莫大な借金をして事業を拡大していくでしょう。そしてその利益もまた、保険料として我々の金庫へ還流してくる」
ベルノが震える手で眼鏡を押し上げる。
大自然の猛威すらも証券化し、人間の『不安』を利益に変換するシステムの完成。
モブ令嬢の構築する経済帝国は、もはや物理的な世界の理不尽すらも克服し、完全なる無敵の領域へと足を踏み入れたのである。




