シーン1:秋の味覚と、沈みゆく富(デフォルト)
幻星蘭のバブル騒動から数ヶ月。
王都アークレインの木々が鮮やかな赤や黄色に色づき、爽やかな秋風が吹き抜ける季節がやってきた。
「はむっ……ん〜、秋はやっぱり『黄金栗のモンブラン』に限るわね! 濃厚なマロンクリームが五臓六腑に染み渡るわ……」
私は銀花銀行本店の頭取室で、特注の巨大なモンブランを独り占めしながら、至福のティータイムを満喫していた。
バブルを鎮火させ、天才相場師ユリアンという便利な『監視カメラ』を手に入れたおかげで、私の夏休み(とそれに続く秋休み)は、かつてないほど完璧で平穏なものとなっていた。
「きゅるるんっ♪」
膝の上では、ルンが私からのお裾分けの栗を丸飲みし、幸せそうにポンポンに膨らんだお腹を揺らしている。
(ああ、これよ、これ。世界中の富が自動的に私の金庫に集まり、私はただ美味しいものを食べて昼寝をするだけ。……私のモブライフは、ついに神の領域に達したと言っても過言ではないわね)
私が紅茶のカップを優雅に傾け、このまま午後のお昼寝に突入しようと目を閉じた、まさにその時だった。
バンッ!!
「か、会長!! 大変です、緊急事態です!!」
またしても、である。
頭取室の重厚な扉が悲鳴を上げ、今度はベルノだけでなく、巨漢のガストンまでが血相を変えて飛び込んできた。
「……ちょっと、あなたたち。私が『美味しいものを食べている時』と『寝ようとしている時』は、西の帝国が滅亡する以上の緊急事態以外は入室禁止って言ったわよね?」
私が冷ややかな声で睨みつけると、ガストンが額から滝のような汗を流しながら叫んだ。
「そ、それが……西の帝国が滅亡するレベルのヤバい事態なんでさぁ! 会長、南の海で『大事故』が起きました!!」
「大事故?」
私はフォークを止め、眉をひそめた。
「はい……。我が銀花銀行から莫大な融資を受けて、南の大陸へ香辛料の買い付けに向かっていた『アークレイン三大商会』の合同船団……大型ガレオン船五隻が、帰りの航海中に『巨大海竜』の襲撃に遭い、全滅したとのことです……!」
ベルノの悲痛な報告を聞き、私は思わず手に持っていたフォークを落としそうになった。
「全滅!? 船も、積み荷の香辛料も全部!?」
「ええ……。船員たちはかろうじて救命ボートで生還しましたが、船と積み荷は全て海の底です。被害総額は、ざっと『金貨十万枚(銀花銀行券で一億リーブル)』に上ります」
私は頭痛を堪えるようにこめかみを揉んだ。
バブルのような人間が起こす経済の病理なら、私が裏からコントロールできる。しかし、大自然の猛威やモンスターの襲撃という『物理的な理不尽』だけは、いくら私が金融の知識を持っていようと防ぎようがない。
「……つまり、その合同船団を出資した三大商会は、積み荷を失って大赤字。うちの銀行から借りた一億リーブルの借金を返すアテが完全に消滅した、ってことね?」
「はい。いわゆる『債務不履行』です。彼らはすでに自己破産の手続きに入る準備をしています。……我が銀行は、一億リーブルという莫大な不良債権を抱え込むことになります」
ベルノが分厚い損失報告書を私のデスクに置いた。
一億リーブル。いくら銀花銀行が莫大な富を持っているとはいえ、無視できる金額ではない。
「ちくしょう! 相手が人間の海賊なら、俺たち暗部が皆殺しにして積み荷を取り返してこれるんですがね! 相手が海竜や大嵐じゃあ、手も足も出ねえ!」
ガストンが悔しそうに壁を殴る。
「……問題は、この一回の大赤字だけじゃないわ」
私は冷めかけた紅茶を一口飲み、頭取としての極めて冷徹な思考回路を起動させた。
「この話が市場に広まれば、他の商人たちはどう思うかしら。『海は危険だ、もし船が沈んだら自分も自己破産してしまう』と恐怖するはずよ。そうなれば、誰も海を渡るような大きな貿易に挑戦しなくなる」
「……っ! 貿易が縮小すれば、我が銀行が貸し出している事業資金の需要も激減し、経済全体の成長がストップしてしまうと……!」
ベルノがハッと息を呑む。
「その通りよ。人間は『見えない未来のリスク』を極端に恐れる生き物なの。今回は海竜だったけど、火事で倉庫が燃えるかもしれない、馬車が崖から落ちるかもしれない。……そういう『偶然の事故』に対する不安がある限り、資本主義の拡大はいつか必ず頭打ちになるわ」
これこそが、物流と経済が巨大化した世界に必ず立ちはだかる最大の壁。
『リスク(危険)』という名の、予測不可能なバケモノである。
「会長、どうするんですかい? 海竜を退治するために、王国の騎士団にでも投資しますか?」
ガストンが身を乗り出して聞いてくる。
「無駄よ。海竜を一匹倒したところで、明日は大嵐が来るかもしれない。大自然の気まぐれを物理的にゼロにすることなんて、神様じゃないんだから不可能よ」
私は立ち上がり、窓から見える秋の美しい王都の風景を見下ろした。
平和な私のモブライフを維持するためには、商人たちに安心して借金をしてもらい、経済を回し続けてもらわなければならない。
「事故そのものをなくせないなら、事故が起きた時の『ダメージ』を、みんなで薄く分け合えばいいのよ」
「……分ける? 誰がそんな赤字を被ってくれるんですか?」
「全員よ。海を渡る全ての商人たちでね」
私は振り返り、二人の幹部に向けて、資本主義が編み出したもう一つの究極の防衛システムの名を口にした。
「ベルノ、ガストン。新しい部署を立ち上げるわよ。……私たちの『紙とインクの魔術』で、自然の理不尽すらも相殺する絶対的な盾。『損害保険』の始まりよ」




