シーン3:強欲の貸出(レンディング)と、見えざる売り圧
翌日。王都アークレインの銀花銀行・本店、地下に隠された『円卓の間』。
かつてない異様な熱気を帯びた市場を制圧するため、私は商会の最高幹部たちを緊急招集していた。
「……現在、市場における幻星蘭の先物価格は、ついに球根一つあたり『金貨三百枚』の大台を突破。狂気の沙汰です。ユリアンはさらに煽りを入れ、一般市民は家や畑を担保に借金をしてまで買い漁っています」
ベルノが苦渋に満ちた顔で報告する。
円卓を囲むガストン、バルト、セリアたちも、この前代未聞の事態に顔を青ざめさせていた。
「会長、いくらなんでも危険すぎます! その『空売り』とやらを仕掛けるにしても、どうやって価格が下がる確証を得るのですか!?」
バルトが前のめりになって尋ねる。
「下がるのを待つんじゃないわ。私たちが『意図的に下落させる』のよ」
私は円卓の中央に、数枚の美しい契約書の束をドンッと置いた。
「作戦の第一段階。まずは、市場に溢れている『幻星蘭の球根の権利書』を、私たちの手元に大量に集めるわ」
「集める? 買い占めるということですか? それではさらに価格が高騰してしまいますが……」
「『買う』んじゃないわ。『借りる』のよ」
私は不敵に笑い、セリアとガストンを見据えた。
「セリア。あなたは貴族の奥様方のネットワークを使って、すでに幻星蘭の権利書を高値で抱え込んでいる貴族たちにこう持ちかけなさい。『その権利書を秋の収穫まで、我が銀花銀行に貸し出していただけませんか? お礼として、権利書の価格の5%をレンタル料として事前にお支払いします』とね」
「まあ……! 権利書を貸すだけで、確実に5%の現金(レンタル料)がもらえるということですの?」
セリアが扇子で口元を隠し、目を丸くする。
「ええ。彼らは『球根の価格は秋まで上がり続ける』と信じ切っている。それなら、秋までただ金庫に眠らせておくより、私たちに貸してレンタル料をもらった方が絶対に得だと計算するはずよ」
「ガハハッ! なるほど、強欲な貴族どもなら、ノーリスクで小遣いがもらえると飛びつくに決まってまさぁ!」
ガストンが膝を叩いて大笑いする。
「その通りよ。ガストン、あなたも商人ギルドの連中から同じ手口で権利書を限界まで借り集めなさい。……そして作戦の第二段階」
私は漆黒のコートの袖をまくり上げ、円卓に広げた市場の地図をペンで勢いよく叩いた。
「かき集めたその『借り物の権利書』を、現在の最高値(金貨三百枚)で、市場に全弾放出(売り浴びせ)するわ」
「なっ……! 全て売ってしまうのですか!? し、しかし、それでは秋に貴族たちへ権利書を返す時、どうするのです!?」
ベルノが悲鳴のような声を上げる。
「だから、売った後に『大暴落』させるのよ」
私は悪魔のように冷酷な笑みを浮かべた。
「最高値で売り抜けて莫大な現金を手に入れた後、市場をパニックに陥れて価格を『金貨一枚』まで暴落させる。そして、暴落してゴミ屑のような値段になった権利書を市場で買い戻し、しれっと貴族たちに返却する。……差額の『金貨二百九十九枚』は、全て私たちの利益よ」
円卓の間に、ゴクリと息を呑む音が響いた。
それは、誰も傷つけずに(バブルに踊った愚か者たちは別として)無から莫大な富を搾り取る、あまりにもえげつなく、そして完璧な金融魔術の全貌だった。
「お、恐ろしい……。人の強欲を餌にして、さらにその裏をかくなんて……」
バルトが震える声で呟く。
「褒め言葉として受け取っておくわ。さあ、時間がないわよ。ユリアンが逃げ切る前に、彼が作り上げた『買い』の熱狂を、私たちの見えない『売り』の圧力で完全に包み込んでしまいなさい!」
「「「は、ははっ!!」」」
幹部たちが一斉に席を立ち、それぞれの持ち場へと走り出していく。
***
数時間後の自由市場。
熱狂の渦の中心で、赤毛の相場師ユリアンは紫色のスーツを着崩し、狂ったように笑っていた。
「買え、買え!! もっと買え!! 幻星蘭の球根は、明日には金貨四百枚になるぞ!!」
彼の手元には、市民から巻き上げた莫大な銀花銀行券が山のように積まれている。
ユリアンの計算は完璧だった。彼自身は安い時に権利書を仕込んでおり、そろそろ価格が頂点に達したこのタイミングで、手持ちの権利書を全て売り抜けて王都から逃亡する計画だった。
(さあ、俺の売りを全部吸収しろ、馬鹿な羊ども! これで俺は一生遊んで暮らせる……!)
ユリアンが腹の中で舌を出していた、その時。
「おい、見ろ! あっちの特設ブースで、大量の権利書が売りに出されてるぞ!!」
「な、なんだって!? しかも今の相場より、少しだけ安い価格で出し続けてる!!」
市場の片隅に突如として現れた、銀花会議の紋章を掲げた黒服の男たち。
彼らは、セリアとガストンが集めてきた『借り物の権利書』を、淡々と、しかし恐ろしいほどのペースで市場へ放出し始めたのだ。
「……なんだと?」
ユリアンは顔をしかめた。
「どこのどいつだ、こんな高値の時に大量の売りを出してきやがる馬鹿は。……まあいい、どうせすぐに買い尽くされて、また価格は上がる」
しかし、ユリアンの予想に反し、黒服の男たちの『売り』は止まらなかった。
市民たちがどれだけ借金をして買いに向かっても、それ以上の圧倒的な物量で、次々と権利書が市場に供給され続ける。
「お、おい……! 買っても買っても、売りが止まらねえぞ!」
「これ、もしかして……秋まで待たなくても、権利書は余ってるんじゃないのか……?」
無限に上がり続けると信じられていた相場に、初めて『停滞』が生まれた。
熱狂で麻痺していた市民たちの脳裏に、ほんのわずかな『疑念』という名の冷や水がぶっかけられた瞬間である。
「チッ……! どこの機関が介入してきやがった! これじゃあ俺が売り抜けるタイミングが……!」
ユリアンが舌打ちをし、焦りの表情を浮かべた。
それこそが、私の狙いだった。
市場というものは、上がり続けている間は誰も疑わない。しかし、一度でも『頭打ち』になった瞬間、今度は「もしかして下がるのでは?」という強烈な『恐怖』が伝染し始めるのだ。
銀行の頭取室から望遠鏡でその様子を見下ろしていた私は、フッと冷たい笑みをこぼした。
「さあ、空売り(ショート)の仕込みは完了したわ。市場の空気は十分に温まり(冷え切り)つつある」
私は傍らに控えるベルノに向けて、無慈悲な死刑宣告を下した。
「針を刺しなさい。……幻星蘭の『真実』を、市場に投下するのよ」
モブ令嬢の冷徹な一手が、人間の欲望で作られた巨大なシャボン玉を、今まさに木端微塵に弾け飛ばそうとしていた。




