シーン2:市場の狂乱と、見えない花(先物取引)
夏の猛暑が容赦なく石畳を照りつける、王都の自由市場。
普段は新鮮な野菜や日用品を求める主婦たちの活気で賑わうその場所は、今日、全く別の異様な熱気に包まれていた。
「金貨百五十枚! 秋に収穫される『幻星蘭』の赤斑種の球根、金貨百五十枚で買うぞ!!」
「こっちは金貨二百枚だ! いや、銀花銀行券で二十万リーブル出そう!!」
「売った! ただし代金は今すぐ払えよ!」
怒号のような歓声と、飛び交う紙幣。
市場の真ん中には特設の取引所が設けられ、目を血走らせた商人や市民たちが、揉みくちゃになりながら何やら書かれた『紙切れ』を奪い合っていた。
「……ひどい有様ね。完全に集団催眠にかかっているわ」
私は目立たない焦茶色のフードを目深に被り、ベルノを従えて市場の隅からその狂乱を観察していた。
「か、会長。あそこで彼らが奪い合っているのは……球根の現物ではありませんよ。ただの『契約書』です」
ベルノが信じられないものを見るような目で、広場の中央を指差す。
「ええ。あれは『先物取引』の契約書ね」
私は呆れたようにため息を吐いた。
「幻星蘭の球根は、秋にならなければ土から掘り出せないわ。つまり、今この市場には『本物の花』なんて一つも存在していない。彼らが法外な値段で売り買いしているのは、数ヶ月後に球根を受け取る権利が書かれた、ただの紙切れよ」
「現物がないのに、権利だけで売買をしている……!? そんな馬鹿なことが!」
「バブル期にはよくあることよ。昨日百万円だった権利書が、今日には二百万円で売れる。なら、花そのものなんてどうでもいい。みんな『次に高く買ってくれる馬鹿(よりバカ理論)』を探して、爆弾ゲームをしているだけなのよ」
私が冷ややかに分析していると、ふと、広場の中央で最も大きな声を出して群衆を煽っている一人の男に目が止まった。
仕立ての良い、しかしどこか胡散臭い派手な紫色のスーツを着た、赤毛の若い男だ。
彼は契約書の束を扇子のように振りかざし、芝居がかった大げさな身振りで叫んでいた。
「さあさあ皆の衆! 今買わずしていつ買うのか! 東部の山脈でしか採れない幻星蘭、今年の秋は天候不順で『極端な不作』だという情報が入っている! 球根の価値はまだまだ上がる、明日は今日の二倍、いや三倍だァ!!」
その言葉に、群衆はさらに熱狂し、男の元へ札束を握りしめて殺到していく。
「……あいつね。今回のバブルの仕掛け人は」
私は目を細めた。
「あの男、見覚えがあります」
ベルノが眼鏡のブリッジを押し上げ、険しい顔で記憶を探る。
「かつて王都の裏社会で『天才相場師』と呼ばれた男……ユリアンです。法外な賭けと詐欺スレスレの投資話で貴族から金を巻き上げ、一時は追放されたはずですが……まさか、こんな形で戻ってくるとは」
「天才相場師、ね」
私は鼻で笑った。
「確かに、人間の『強欲』と『恐怖』をコントロールする術には長けているみたい。彼が意図的に『不作だ』という偽の情報を流して供給の不安を煽り、先物取引というギャンブルを市民に教え込んだのね。……うちの銀行から引き出された融資(お金)を使ってね」
自分の作った便利な金融システム(銀行と紙幣)が、あんな胡散臭い男の詐欺まがいのギャンブルに利用されていると思うと、心底腹が立ってくる。
私が望むのは、安定した利益と平和なモブライフであって、こんな胃の痛くなるようなバブル経済ではない。
「会長、どうしますか? 今すぐ暗部を動かして、あのユリアンという男を拘束しますか?」
「ダメよ。今あいつを捕まえて『幻星蘭の価値は嘘でした』なんて暴露したら、パニックが起きてバブルが一瞬で弾ける(クラッシュする)わ」
私は首を横に振った。
「バブルが弾ければ、高値で球根の権利を買った市民たちは全員自己破産。うちの銀行が貸し付けた数千万リーブルの借金も焦げ付いて、大赤字よ」
「……では、我々はあの男が市場から資金を吸い上げて逃げるのを、ただ見ているしかないと!?」
ベルノが悔しげに拳を握る。
「誰がそんなこと言ったの?」
私はフードの下で、ユリアンよりもさらに悪辣で、絶対的な金融覇王の笑みを浮かべた。
「あいつは『価格が上がる』方に賭けて、市民を巻き込んで相場を吊り上げている。なら、私は『価格が下がる』方に賭けて、あいつの築いた砂上の楼閣を根こそぎ奪い取ってあげるわ」
「価格が、下がる方に賭ける……? そんなことが可能なのですか?」
「可能よ。資本主義の最終兵器、『空売り(ショート・セル)』を使うの」
「から……うり?」
ベルノが初めて聞く単語に首を傾げる。
私は市場の熱狂を見つめながら、その悪魔的な仕組みを説明した。
「ベルノ、よく聞いて。まず、あなたが『現在の価格(金貨二百枚)』で、誰かから球根の現物(または権利)を借りてくるの。そして、それをすぐに今の高値で市場に売ってしまうのよ」
「えっ? 借りたものを、勝手に売ってしまうのですか!?」
「そうよ。当然、後で『借りた球根』を元の持ち主に返さなきゃいけないわ。でも……もしその後、バブルが弾けて球根の価格が『金貨一枚』まで大暴落したら、どうなる?」
「あ……」
ベルノの優秀な商人の頭脳が、瞬時にその計算式を弾き出し、目を見開いた。
「暴落した後に、市場で『金貨一枚』で球根を買い戻して、元の持ち主に返せばいい……。そうすれば、最初に売った『金貨二百枚』との差額……金貨百九十九枚が、まるまる利益になる!!」
「その通りよ。暴落すればするほど、莫大な利益が出る。これが『空売り』よ」
私はパンッと軽く手を叩いた。
「ユリアンは、自分がバブルの頂点で売り抜けて逃げるつもりでしょうけど、甘いわ。彼が逃げるより一瞬早く、私たちが市場に大量の『空売り』を仕掛けて、意図的に大暴落を引き起こすのよ」
「しかし会長、その空売りで得た利益は……」
「当然、自己破産しそうな市民たちの『借金の帳消し(不良債権処理)』に全額充てるわ。銀花銀行の損失をゼロにするための防衛戦よ」
相場師の天才ユリアンと、世界経済の裏を支配するモブ令嬢。
王都の自由市場を舞台にした、人間の強欲を金に変える『投機バブル』と、それを意図的に破壊する『空売り』の、前代未聞のマネーゲームが今、静かに幕を開けようとしていた。




