シーン1:異常な高騰と、見えざる熱病(投機)
大陸全土を巻き込んだ経済支配が完了し、完璧な不労所得システムが稼働し始めてから数ヶ月。
王都アークレインには、記録的な猛暑の夏が到来していた。
「あつぅい……。いくらお金があっても、この暑さだけはどうにもならないわね」
銀花銀行本店の最上階、頭取室。
私は氷の魔導具をフル稼働させた涼しい部屋のソファにだらんと寝転がり、冷たく冷やした最高級のメロンを匙で掬いながら、この世の春(夏だけど)を謳歌していた。
足元では、ルンが氷の魔導具の真ん前に陣取り、「きゅぅ〜……」と溶けかけたスライムのような声を上げている。
大陸中の経済は私のデザインした通りに完璧に回っている。各国のトップたちは私の機嫌(金利)を損ねないよう必死に働き、私はただ涼しい部屋で昼寝をしているだけで、銀行の金庫には毎分毎秒、莫大な富がチャリンチャリンと転がり込んでくる。
(ふふっ、最高だわ。これこそが私の求めていた『究極のモブライフ』。もう一生、この部屋から出ないで生きていこうかしら……)
私がメロンの最後の一口を頬張ろうとした、まさにその時。
バァァンッ!!
「か、会長!! 大変です、緊急事態です!!」
頭取室の重厚な扉が勢いよく開き、いつにも増して顔面を蒼白にさせたベルノが転がり込んできた。
「……ちょっとベルノ。ノックもなしに飛び込んでくるなんて、あなたらしくないわね。西の帝国で反乱でも起きた? それとも聖国の教皇がまた何かやらかした?」
私が匙を咥えたまま気怠げに尋ねると、ベルノは首を激しく横に振った。
「ち、違います! 戦争や反乱ではありません! ……『花』です!!」
「……花?」
「はい! 現在、王都の自由市場で『幻星蘭』の球根が、異常な価格で取引されているのです!!」
ベルノがデスクに叩きつけた報告書を見て、私は微かに眉を顰めた。
幻星蘭。たしか、東部の山岳地帯に自生する、夜になると微かに星のように光るという珍しい花だ。観賞用としては美しいが、ポーションの材料になるわけでも、魔導具の動力になるわけでもない。完全に『ただの綺麗な花』である。
「幻星蘭がどうしたの? 貴族の間で園芸でも流行っているのかしら。せいぜい銀貨一枚か二枚の価値でしょう?」
「そ、それが……! 現在の市場価格は、球根一つにつき『金貨百枚(銀花銀行券・十万リーブル)』を突破しました! しかも、数時間単位で価格が跳ね上がり続けているのです!!」
「……は?」
私は咥えていた匙をポロリと落とした。
ただの観賞用の花の球根一つが、家が一軒建つほどの値段で取引されている? いくら好景気とはいえ、常軌を逸している。
「どういうこと? 誰かが買い占めて価格を吊り上げているの?」
「分かりません。しかし、市場は完全に狂乱状態です! 『今日球根を買えば、明日には二倍の値段で売れる』という噂が街中に広まり、商人だけでなく、一般の平民や職人たちまでが、仕事もせずに借金をしてまで幻星蘭の球根を買い漁っているのです!」
ベルノの悲痛な報告を聞き、私の頭の中に前世の歴史で学んだ一つの恐ろしい単語がフラッシュバックした。
(――『チューリップ・バブル』……!)
17世紀のオランダで起きた、世界最初のバブル経済。実用性のないただの花の球根が、投機的な熱狂によって異常な高値で取引され、最後には弾けて多くの破産者を生み出した、あの集団狂気。
それが今、この魔法と剣のファンタジー世界で、全く同じように発生しているのだ。
「……ベルノ。うちの銀行から、その球根を買うための『融資』を引き出している人間はどれくらいいるの?」
私が声のトーンを一段階落として尋ねると、ベルノはビクッと肩を震わせた。
「そ、それが最大の問題です。……この一週間で、王都支店だけでおよそ『数千万リーブル』という莫大な額の紙幣が、球根の購入資金として貸し出されています。担保は……彼らがこれから買う予定の『幻星蘭の球根』です」
「……っ!!」
私はガタッと音を立ててソファから立ち上がった。
それはつまり、どういうことか。
もし、この狂ったように上がり続けている花の価格が突然暴落したら。
借金をして球根を買った人々は、手元に無価値になった花だけが残り、銀行への借金を返せなくなる。大量の債務不履行が連鎖的に発生し、担保として回収した球根もゴミ屑同然。
結果として、我が『銀花銀行』は莫大な不良債権を抱え込み、最悪の場合、連鎖倒産の危機に陥る。
「……戦争も反乱も起きない平和な世界を作ったと思ったら。今度は『人間の強欲』そのものが、私のシステムを内側から食い破ろうとしているってわけね」
私は冷や汗を拭いながら、漆黒のコートを乱暴に羽織った。
「会長、いかがなさいますか!? このままでは、王都の経済そのものが花の球根一つで崩壊してしまいます!」
「決まっているでしょう。バブルは、弾ける前に『ソフトランディング(軟着陸)』させるか、意図的に空気を抜くしかないわ」
私はデスクの上の報告書を睨みつけた。
しかし、どうにも腑に落ちない。自然発生的にここまで急速なバブルが形成されるだろうか? まるで、誰かが意図的に噂を流し、火種に油を注いで『熱狂』をコントロールしているかのような……。
「……きゅん?」
ルンが心配そうに私を見上げる。
「大丈夫よ、ルン。……でも、私の平穏な夏休みを邪魔する奴は、どこのどいつであろうと絶対に許さないわ」
私は冷徹な金融覇王の目つきを取り戻し、ベルノに向けて鋭く指示を飛ばした。
「ベルノ! 今すぐ王都の自由市場へ向かうわ。この馬鹿げた熱病の震源地を、私の目で直接確かめるのよ!!」
剣も魔法も届かない、人間の「欲」という名の見えないバケモノ。
究極の怠惰を求めるモブ令嬢の前に、資本主義最大の病理『投機バブル』が、静かに、そして凶暴に牙を剥き始めていた。




