シーン7:神様の帳簿と、完璧なるモブ令嬢の昼休み
聖国の完全無血開城から数週間後。
王立アークレイン学園は、初夏の眩しい陽射しと、どこまでも青く澄み渡る空の下にあった。
「んん〜っ……! やっぱりこの『幻の三ツ星サンドイッチ』は最高ね。平和な世界に乾杯だわ」
学園の裏庭、私のお気に入りとなった特等席のベンチ。
私は両手で大切に持った分厚いローストビーフのサンドイッチを頬張りながら、幸福の絶頂に浸っていた。
隣ではルンが、私の膝の上で仰向けになりながら、ポカポカとした陽気の中で完全に無防備な寝息を立てている。
「……君は本当に、世界を根底からひっくり返した自覚があるのかい?」
頭上から降ってきた呆れ声に視線を上げると、そこにはプラチナブロンドの髪を初夏の風に揺らす、美しき西の若き皇帝――レオンハルトの姿があった。
彼は皇帝として即位した後も、「アークレインとの強固な同盟の証」という名目で、ちゃっかりこの学園に籍を置いたまま、二つの国を行き来する多忙な二重生活を送っている。
「あら、レオンハルト様。皇帝陛下がこんな所で油を売っていてよろしいの? 帝国の為替レート、昨日少し変動していましたわよ」
「君の銀行が金利をいじったせいだろう。おかげで徹夜で書類仕事だったよ」
レオンハルトは優雅な所作でため息をつき、私の隣のベンチに腰を下ろした。
「それにしても……驚いたよ。聖国イグドラシアの暴動が、たった数日で完全に鎮火したんだからね」
「当然でしょう。暴動の原因は『お腹が空いたから』よ。だから、私が銀花会議の物流網をフル稼働させて、聖国の広場という広場に『山積みのパンと温かいスープ』を投下してあげたの。……お腹がいっぱいになれば、人間はそれ以上怒るのをやめるわ」
私はサンドイッチをモグモグと噛みしめながら、平然と答えた。
教皇庁から『信仰の管理業務』を委託された銀花銀行は、直ちに聖国へ大量の食料を送り込んだ。そして、神官たちから没収した旧来の不便な帳簿を燃やし、代わりに『複式簿記』と『銀花銀行券(法定通貨)』を導入したのだ。
「今や聖国の教会は、完全に我が銀行の『支店』として機能しているわ。神官たちの仕事は、信者に説教をすることじゃなくて、窓口で証券とパンを交換する『テラー(窓口業務)』よ。……横領ができないように、ベルノが徹底的に監査を入れているから、過去最高にクリーンな教会に生まれ変わったわね」
「神の奇跡を、完全に金融システムに組み込んでしまったか……。歴代の教皇が聞いたら、ショックで泡を吹いて倒れるだろうね」
レオンハルトが、どこか遠い目をして呟く。
「でも、信者たちは喜んでいるわ。祈りの回数や神官の機嫌に怯えることなく、働いた分だけ確実に対価(証券)がもらえて、それがすぐに美味しい食事に変わるんだもの。……『銀花会議のシステムこそが、真の神の救済だ』って、北の大地でもすっかり信者が増えたわよ」
私はふふっと笑い、最後の一口を飲み込んでナプキンで手を拭いた。
「これで、大陸の主要な国家は全て、私の『経済』の内側に収まった。誰も武力なんて野蛮なものは使わない。だって、私に逆らえば、明日のパンも、軍隊を動かすお金も、全てが一瞬で停止してしまうんだから」
見えざる手によって、完全に世界を掌握した。
もう、誰も私を脅かすことはできない。私の平穏なモブライフを邪魔する者は、この大陸のどこにも存在しないのだ。
「……恐ろしい女王様だ。剣も魔法も使わず、ただインクと紙切れで世界を征服してしまった」
レオンハルトは苦笑しつつも、その翡翠の瞳には、かつて私に向けた敵意ではなく、絶対的な信頼と畏敬の念が宿っていた。
「でも、君がその頂点に座り続けている限り、この大陸はかつてないほどの繁栄と平和を享受し続けるだろう。……頼りにしているよ、世界最大の『裏の覇王』さん」
「裏の覇王なんて、人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。私はただの、田舎の騎士爵家の目立たない令嬢なんだから」
私が唇を尖らせて抗議すると、レオンハルトは声を上げて笑った。
「ああ、そうだね。学園で一番の『平和を愛するモブ令嬢』だ」
彼が立ち上がり、執務に戻るために歩き出すのを見送ってから、私は再びベンチの背もたれに深く身を沈めた。
遠くのサロンからは、同級生の令嬢たちの楽しげな話し声が風に乗って聞こえてくる。
「ねえ、最新の帝国のドレス、銀花銀行の紙幣で予約できたわ!」
「聖国の新しい特産品の魔石アクセサリーも、王都で大流行ですって!」
彼女たちは何も知らない。
自分たちが手にする富も、流行も、国家の命運すらも、全てこの窓際のベンチで昼寝をしている『地味な令嬢』が計算し、デザインしたシステムの上で踊っているだけだということを。
「きゅるんっ」
ルンが寝返りを打ち、私のお腹の上で丸くなる。
「さて、と……。お腹もいっぱいになったし、午後の魔法史の授業は……サボって、このままお昼寝にしちゃおうかしら」
私は心地よい春の陽射しを全身に浴びながら、ゆっくりと目を閉じた。
没落寸前の実家を救うために始めた、ほんの小さな商売。
それがいつの間にか、軍閥の兵站を握り、大帝国の資本を飲み込み、神の奇跡すらも証券化する巨大な経済帝国へと変貌を遂げてしまった。
でも、私の願いは最初から何一つ変わっていない。
ただ、安心で、安全で、美味しいご飯が食べられる『究極の怠惰な生活』を手に入れたかっただけなのだ。
世界中の金貨と紙幣が、今日も私のためにせっせと働き、富を運んでくる。
その完璧なシステム(子守唄)の音色を遠くに聞きながら、モブ令嬢は、誰にも邪魔されることのない最高のまどろみの中へと落ちていった。




