シーン6:教皇の懺悔と、神の教義のアウトソーシング
王都アークレインの中心にそびえ立つ、銀花銀行本店の最上階。
下界の喧騒から完全に切り離された、豪奢な静寂に包まれる特別応接室に、一人の老人が案内されてきた。
豪奢な白と金の法衣は長旅と疲労で汚れ、深く刻まれた皺には、絶対権力者としての威厳ではなく、死を待つばかりの老残の絶望が張り付いている。
彼こそが、大陸北部を支配する絶対不可侵の宗教国家・聖国イグドラシアの最高指導者――教皇ピウス八世であった。
「……よくおいでくださいました、教皇聖下。遠路はるばるのお越し、心より歓迎いたしますわ」
私はふかふかの革張りソファから立ち上がることなく、ティーカップを片手に、優雅な微笑みで彼を出迎えた。
私の背後にはベルノが控え、周囲には暗部の者たちが音もなく影を潜めている。
教皇ピウスは、私という『悪魔の商会主』の若さと、あどけない少女の姿に一瞬だけ驚愕の目を向けたが、すぐにガクンと膝から崩れ落ち、応接室の絨毯に両手をついた。
「……どうか、我が国を救っていただきたい。……いや、暴徒と化した信者たちから、教皇庁の命をお救いください」
かつて他国を異端と見下し、神の代理人を自称していた男の、哀れなまでの土下座だった。
「顔を上げてくださいな、教皇聖下。私はただの商人です。命を救う神の奇跡は持ち合わせておりませんわ」
私が冷ややかに応じると、教皇は血を吐くような声で懇願した。
「奇跡など……もう聖国には残っておらんのです。国庫の食料は底を尽き、異端審問局は民衆の暴動によって壊滅状態。暴徒どもは今や教皇庁の門前まで迫っている! 彼らを鎮めるための傭兵を雇う金も、配るパンすらも……我々には何一つない!」
「ええ、存じております。教会の『功徳』システムが崩壊し、誰も魔石を納めなくなったのですから、当然の結果ですわね」
私はティーカップを置き、ベルノに目配せをした。
ベルノが恭しく進み出て、教皇の目の前に分厚い『融資契約書』を提示する。
「教皇聖下。我が銀花銀行は、聖国イグドラシアに対する『大規模な緊急救済融資』を行う用意がございます」
ベルノの言葉に、教皇が縋るように顔を上げた。
「ほ、本当か……! それで、暴徒を鎮める食料と、彼らを制圧する傭兵の費用を貸していただけるのだな!?」
「傭兵は必要ありません。暴動を鎮めるのは武力ではなく『経済の正常化』です」
私は立ち上がり、教皇を見下ろした。
「私が聖国に莫大な食料と物資を供給し、民衆の不満を完全に鎮火してさしあげます。……ただし、この融資には三つの絶対条件がありますわ」
私は指を三本立て、冷酷な金融のルールを突きつける。
「一つ。聖国は今後、銀花銀行が発行する『功徳証券(紙幣)』を、神が認めた公式な法定通貨として教義に組み込むこと」
「二つ。聖国全土の『光の魔石』の採掘権と専売権を、融資の担保として我が銀花銀行へ譲渡すること」
ここまでは、教皇も予想の範疇だったのだろう。彼は顔を歪めながらも、黙って首を縦に振った。
しかし、私の提示する三つ目の条件は、宗教国家の根幹を根こそぎ奪い取るものだった。
「三つ。今後、教皇庁が行っている『信者の功徳(信仰ポイント)の管理・集計・配給業務』の一切を、我が銀花銀行に完全委託すること。……聖国は今後、金融および行政の管理権を放棄していただきます」
「なっ……!?」
教皇の目が限界まで見開かれた。
「そ、それは……! 教会の権威を、そなたら異教徒の商人に全て明け渡せと言うのか!? 信仰の管理を手放せば、我々教皇庁はただのお飾りの偶像になってしまう!」
「その通りです。ただのお飾り(マスコット)になっていただくのです」
私は冷徹に、一切の妥協を排して言い放った。
「あなた方の非効率な手書きの帳簿と、腐敗した神官たちの管理システムが、今回の市場崩壊を招いたのです。信仰を数字で管理するなら、金融のプロである私たちの方が一万倍上手くやれるわ」
私は教皇の目の前にしゃがみ込み、その耳元で悪魔のように囁いた。
「安心なさい。教皇庁の権威だけは残しておいてあげる。あなたたちは毎日、豪華な教会で『神への祈り』だけを捧げていればいいの。厄介な経済の計算や、民衆への食料の配給、クレームの処理は、全て銀花銀行が代行してあげるわ」
教皇はワナワナと唇を震わせた。
それは事実上、聖国イグドラシアという国家が『銀花会議の完全な子会社』に成り下がることを意味している。神の教えすらも、商会の業務委託の一つに組み込まれるのだ。
「……悪魔め。そなたの血には、金貨への強欲しか流れておらんのか……」
「あら、心外ね。私はただ、誰もが平和でお腹いっぱいになれる『最高に効率的なシステム』を作りたいだけよ」
私は微笑みながら、契約書と羽ペンを教皇の震える手に押し付けた。
「さあ、サインを。教皇庁の門が暴徒に破られ、あなたが広場で火あぶりにされるまで、もう時間は残されていませんわよ?」
ギリッ、と。
老教皇は最後のプライドを噛み砕く音を立てながら、震える手で契約書にサインをした。そして、聖国の絶対的な権威の象徴である教皇印を、重々しく押し付ける。
その瞬間、大陸の歴史において最も異端で、最も強固だった宗教国家は、モブ令嬢の構築した『資本主義のシステム』の前に完全降伏を果たしたのである。
***
「……見事な手際です、会長。これで聖国の全権力と特産品が、完全に我々の掌の中に落ちました」
教皇が放心状態のまま暗部の者たちに連れ出された後、ベルノが深い感嘆の息を漏らした。
「ただの借金の担保じゃないわよ。これからは『神の奇跡』の運用成績(利回り)を、私たちが管理するんだから。……少しでもサボる神官がいたら、容赦なくリストラ(破門)してあげるわ」
私は契約書をパラパラと確認し、満足げに引き出しの金庫へ仕舞い込んだ。
「きゅるんっ!」
ソファーの端で丸くなっていたルンが目を覚まし、私の足元に擦り寄ってくる。
「ふふっ、ルンもお疲れ様。これで大陸の北の脅威も完全に消え去ったわ」
東の軍閥は私の物流網に依存し、西の大帝国は私の紙幣(通貨覇権)にひれ伏し、そして今、北の宗教国家は信仰そのものを私にアウトソーシングした。
「武力も、魔法も、神の奇跡も。……結局、全ては『お金と信用(経済)』というルールの内側でしか機能しないのよ」
私は窓辺に歩み寄り、眼下に広がる王都の美しい夜景を見下ろした。
誰も血を流さない。誰も悲しまない。ただ、全員が私の作ったシステムの中で、豊かさと引き換えに見えない鎖に繋がれている。
「あーあ、これでようやく、心置きなく学園の購買部のパンを買い占めて、日向ぼっこしながら昼寝ができるわ」
私は大きく伸びをして、本来の目的である『究極の怠惰なモブライフ』の完成に、心の底から満面の笑みを浮かべた。
世界を裏から支配する冷酷な金融覇王の、誰にも見せられない、ただの平和を愛する少女の素顔。
見えざる手(経済)で全てを統べたモブ令嬢の商売は、こうして大陸全土を巻き込み、完全なる覇権を確立したのである。




