シーン5:異端審問と、燃え上がる財産権(プロパティ・ライツ)
聖国イグドラシア南部、雪深い渓谷に位置する最大の魔石採掘村。
普段は凍えるような寒さと静寂に包まれているその村の中央広場は、今、松明の赤黒い炎と怒号、そして絶望的な悲鳴によって地獄絵図と化していた。
「家の中を隅々まで探せ! 悪魔の紙切れを隠し持っている者は、赤子であろうと容赦するな! 全て広場へ引きずり出せ!!」
異端審問局の長官ゼノが、血走った目で絶叫する。
彼の命令に従い、完全武装した数百名の異端審問官たちが、次々と粗末な小屋の扉を蹴り破り、村人たちを雪の積もる広場へと引きずり出していた。
広場の中央には巨大な火刑柱が立てられ、そこには村の長老や、証券を使ってパンを買おうとした者たちが縛り付けられている。
「愚かな下民どもよ! 貴様らは神の与えたもうた『功徳』を汚し、異教徒の悪魔が刷った紙切れ(証券)に魂を売った! その罪は万死に値する!!」
ゼノは抜いた剣を振り上げ、広場に集められた数千人の村人たちを冷酷に見下ろした。
「今すぐ、隠し持っている『悪魔の証券』を全てこの火にくべろ! さもなくば、貴様ら全員を神の裁き(火あぶり)に処す!!」
異端審問官たちが松明を掲げ、じりじりと村人たちを包囲する。
圧倒的な暴力と、神の権威。かつての聖国の民であれば、その恐怖の前に平伏し、涙を流して懺悔したことだろう。
しかし――。
「……ふざ、けるな」
雪の上に叩きつけられていた一人の若い鉱夫が、震える足でゆっくりと立ち上がった。
その手には、泥と雪に塗れながらも、決して手放そうとしない一枚の『功徳証券』がしっかりと握りしめられている。
「ふざけるな! 俺たちが飢え死にしそうな時、教会は祈りが足りないと見捨てたじゃないか! 俺の妹の熱を下げてくれたのは、神様の祈りじゃない! この紙切れで買った『薬』だ!!」
「なんだと……!? 貴様、神を冒涜するか!!」
ゼノが激昂し、剣を振り下ろそうとした、その時。
「そうだ! 教会は俺たちから魔石を巻き上げるだけで、パン一つくれなかった!」
「この紙切れ(証券)は、俺たちが血を流して手に入れた『俺たちの財産』だ! 誰にも奪わせるものか!!」
広場のあちこちから、怒りに満ちた声が次々と上がり始めた。
村人たちは次々と立ち上がり、手にはピッケルやスコップ、松明といった「労働の道具」を握りしめている。その瞳に宿っているのは、もはや神への畏れではない。
自分が正当に手に入れた『私有財産』を理不尽に奪い取ろうとする権力への、純粋で激しい憎悪だ。
「き、貴様ら、狂ったか! 異端審問官に歯向かうというのか!」
ゼノが狼狽して後ずさる。
数百人の武装兵に対して、村人の数は数千人。彼らは失うもののない絶望と、財産を守るという強烈なモチベーションによって、完全に死の恐怖を克服していた。
「俺たちの『金』を奪う奴は、神官だろうが絶対に許さねえ!!」
「殺せ!! 俺たちの証券を守るんだ!!」
「ひ、ひぃぃっ! や、やめ……!!」
暴動の波は、瞬く間に異端審問官たちを飲み込んだ。
鍛え上げられた騎士たちの剣も、財産権という資本主義の魔法に目覚めた群衆の数の暴力の前には、紙切れ同然だった。怒号と悲鳴が雪山にこだまし、聖国の絶対的な権威は、彼らが最も見下していた「下民の強欲」によって完全に蹂躙されていった。
***
同時刻、アークレイン王都。
銀花銀行の頭取室では、温かい暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てていた。
「……報告が入りました。聖国南部の魔石採掘村にて、大規模な暴動が発生。派遣された異端審問局の部隊は、証券を隠し持っていた村人たちの反撃に遭い、ゼノ長官を含め『全滅』したとのことです」
ベルノが送られてきたばかりの暗号通信を読み上げ、信じられないというようにゴクリと唾を飲み込んだ。
「現在、暴動の火種は聖国全土に飛び火しています。証券(財産)を没収されそうになった信者たちが次々と武装蜂起し、各地の教会を襲撃。食料庫を略奪し、腐敗した神官たちを吊るし上げています。……聖国は今、完全に無政府状態へと突入しました」
「ご苦労様。思ったより展開が早かったわね」
私は優雅にハーブティーのカップを傾け、窓の外の平和な夜景を見つめた。
「人間というのはね、神様のために命を捨てることはできても、『自分の財布』のために命を捨てることには、もっと躊躇がない生き物なのよ」
私はティーカップをソーサーに置き、冷徹な微笑みを浮かべた。
「宗教が与えるのは『死後の救済』だけ。でも、私たちが与えた証券(資本)は『明日のパン』を約束した。……お腹を空かせた民衆にとって、どちらが真の神様かは火を見るよりも明らかでしょう?」
「……恐ろしいことです。我々は一兵も動かさず、ただ『紙切れ』を流通させただけで、あの絶対不可侵の宗教国家を内戦状態に追い込んでしまった」
ベルノが、私の背中に向かって畏怖の念を込めて呟く。
「内戦? いいえ、これは『市場の正常化』よ」
私は立ち上がり、頭取室の壁に掛けられた大陸地図の『聖国イグドラシア』の部分を指先でツンと叩いた。
「教皇庁は今頃、自分たちが信者たちに殺される恐怖と、国庫に魔石が一つもないという現実に震え上がっているはずよ。軍隊を動かそうにも、彼らには彼らを動かすための『お金』が一切ないんだから」
武力を持たないモブ令嬢の金融魔術は、いかなる軍隊よりも残酷に機能する。
信仰という見えない鎖を『証券』という目に見える価値に変換したことで、民衆は初めて自分たちが搾取されていたことに気づき、怒りを爆発させたのだ。
「さて、ベルノ」
私は漆黒のコートの襟を正し、振り返った。
「そろそろ、教皇庁から泣きついてくる頃合いよ。……国を焼き尽くす内乱を鎮め、空っぽになった食料庫を満たすための『莫大な借金』の申し込みがね」
資本主義の業火に焼かれた神の国を、絶対的な借金という鎖で飼い慣らす。
モブ令嬢のえげつない救済劇が、最終フェーズへと移行しようとしていた。




