シーン4:信仰の流動化と、空っぽの教会
地下取引所の設立から、わずか三ヶ月。
絶対不可侵を誇った聖国イグドラシアの国内には、教皇庁すら全く予期しなかった恐るべき『異変』が起きていた。
聖国の首都近郊にある、とある貧民街。
かつては、夜明けと共に人々が教会へ並び、司祭に祈りを捧げて配給のパンを受け取るのが日常の風景だった。しかし今、教会の前には閑古鳥が鳴き、広場には活気ある『闇市』が形成されていた。
「大根三本と、この『功徳十点分』の証券を交換してくれ!」
「ああ、いいとも。お釣りは『功徳一点』の小切手でいいかい?」
信者たちの間で交わされているのは、教会の帳簿ではなく、銀花会議の紋章が印字された『功徳証券』だった。
最初は、地下取引所で借金をした一部の信者だけが使っていた証券だった。
しかし、彼らが気づいてしまったのだ。「わざわざ教会へ行って帳簿に記帳してもらわなくても、この『紙』を直接パン屋に渡せば、パンが買えるじゃないか」と。
神官の腐敗によって裏書き(保証)されたその証券は、教会の配給よりも確実に、そして早く物資と交換できる。結果として、聖国の民は教会の配給システム(帳簿)を捨て、銀花会議が発行した『功徳証券』を、事実上の新しい通貨として使い始めたのである。
***
「……信じられません。聖国の経済が、完全に我々の発行した『紙(証券)』に乗っ取られています」
王都の銀花銀行・本店。
頭取室で最新の報告書を読み上げるベルノの声は、もはや感嘆を通り越して恐怖に震えていた。
「現在、聖国内で流通している功徳証券の総量は、当初我々が上位神官から買い取った額の数十倍に膨れ上がっています。信者たちは『銀花会議の証券こそが、真の神の恵みだ』と信じて疑わず、教会の公式な配給所は完全に機能不全に陥りました」
「当然の結果ね」
私は頭取室のソファで、取り寄せた最高級の苺タルトを切り分けながら、クスリと笑った。
「教会がいちいち個人の信仰心を管理して、配給の量を決めるなんて、システムとして非効率すぎるのよ。……私の発行した証券は、誰の目にも価値が明らかで、いつでも誰とでも交換できる。これを経済用語で『信仰の流動化(証券化)』と呼ぶわ」
「し、信仰の流動化……」
「ええ。彼らは今まで『祈り』という目に見えない重いものを背負って生きていた。でも、それを『紙切れ(通貨)』に変換してあげたことで、圧倒的な自由を手に入れたのよ。もう、誰もあの息苦しい教会の帳簿には戻れないわ」
私はタルトを一口頬張り、甘酸っぱい幸福感に目を細める。
「それに、一番の成果はこれよ」
私が指差したのは、別の報告書に記載された『光の魔石』の採掘量データだった。
「聖国の国庫(教会)に納められる光の魔石の量が、前年比で『八割減』になっているわ。……信者たちは皆、採掘した魔石を教会ではなく、利子の支払いとして私たちの闇取引所へ持ち込んでいるからね」
「はい。その結果、我が商会は聖国の特産品である光の魔石を完全に独占しました。王都の市場で高値で売り捌き、莫大な利益を生み出し続けています」
ベルノが分厚い帳簿を叩く。
「教会は今頃、パニックに陥っているはずよ。帳簿上は上位神官たちが莫大な『功徳』を持っているのに、国庫には配給するための魔石も食料も、何一つ残っていないんだから」
いわゆる、悪性のインフレーションと物資不足。
閉鎖空間の中で完璧なバランスを保っていた聖国の宗教経済は、私が持ち込んだ『シャドーバンキング(影の銀行)』によって、完全に内部から食い破られたのだ。
***
同時刻。聖国イグドラシア・教皇庁の中心部。
「――ダリウス司祭!! 貴様、これがどういうことか分かっているのか!!」
異端審問局の長官である狂信者・ゼノは、血走った目で、肥え太ったダリウス司祭の胸ぐらを掴み上げていた。
「ひぃぃっ! わ、私ではありません! 私はただ、少しばかり異教徒の商人からワインを……!」
「黙れ!! 貴様の管理する教区の帳簿はどうなっている! なぜ、貴様個人の功徳が異常に減少し、その分が『正体不明の紙切れ』となって下民どもの間で出回っているのだ!!」
ゼノ長官は、没収した数枚の『功徳証券(銀花会議製)』を床に叩きつけた。
「我が国の神聖なる『功徳』が、まるで汚らわしい金貨のように下民の間で取引されている! しかも、国庫に納められるはずの『光の魔石』は全て消え失せ、教会は今や信者に配るパン一つ用意できん状態だ!」
「そ、それは……下民どもが、悪魔の商人に唆されて……」
ダリウスが言い訳を重ねる前に、ゼノ長官は剣を抜き、冷酷に振り下ろした。
悲鳴と共に、腐敗した司祭は血の海に沈む。
「……愚か者が。己の強欲で、神の国に悪魔を招き入れるとは」
ゼノ長官は血に濡れた剣を拭い、異端審問官たちに向けて怒り狂った声で号令を下した。
「全軍に出撃を命じる! 国境付近に潜む『悪魔の取引所』を徹底的に捜索し、灰燼に帰せ! そして、あの忌まわしい証券を持っている下民どもは、一人残らず異端として火あぶりにしろ!!」
「ははっ!!」
武装した異端審問官たちが、殺意に満ちた足音を響かせて出撃していく。
教皇庁はついに、目に見えない経済の侵略に対して、物理的な暴力(武力)で対抗する決断を下したのだ。
***
王都の頭取室。
「……暗部からの報告です。聖国の異端審問局が完全に動き出しました。数千の武装兵が、我々の地下取引所と、証券を持つ信者たちの村へ向かって進軍を開始したとのことです」
ベルノの緊迫した報告を聞き、私はタルトの最後の一口を飲み込んで、優雅にナプキンで口元を拭った。
「力技に出たわね。でも、遅すぎるわ」
「会長、いかがなさいますか? 取引所を直ちに放棄し、撤退命令を出しますか? 下手に応戦すれば、聖国との全面戦争に発展しかねません」
「撤退? なぜ私たちが逃げなきゃいけないの?」
私は立ち上がり、漆黒のコートを肩に羽織った。
その瞳には、モブ令嬢の無害な光は一切なく、世界を支配する冷徹な金融覇王の絶対的な自信が宿っていた。
「ベルノ。よく覚えておきなさい。……人が一番狂暴になるのは、神様を冒涜された時じゃないわ。『自分の財産(お金)』を奪われそうになった時よ」
私は窓辺に歩み寄り、北の空を見据えた。
「聖国の軍隊が戦う相手は、私たち銀花会議じゃないわ。……彼らが火を放とうとしているのは、今や『功徳証券』という財産を握りしめ、資本主義の甘い蜜を覚えてしまった数十万人の信者(自国民)そのものよ」
神の奇跡を証券化し、民衆に「富」という名の絶対的な力を与えた。
異端審問官の剣が届く前に、聖国イグドラシアの内部では、教皇庁すら制御不能な『最大規模の反乱』が起きようとしていた。




