シーン3:地下取引所(ブラックマーケット)と、堕落する聖職者
聖国イグドラシアの国境に連なる、雪と氷に覆われた険しい山脈。
その中腹にある、かつて廃坑となった巨大な洞窟の中に、銀花会議が極秘裏に建設した『地下功徳取引所』は存在していた。
「おお……なんと素晴らしい香りだ。これは、なんという食べ物かな?」
分厚い修道服に身を包み、顔をフードで隠した恰幅の良い男――聖国境教会のダリウス司祭は、テーブルに並べられた艶やかなローストポークと、透き通るような琥珀色のワインを前に、喉をごくりと鳴らした。
「我がアークレイン王国が誇る『特級豚の香草焼き』と、百五十年物のヴィンテージワインでございます。……ささ、司祭様。遠慮なく神の恵み(・・・・・)をお楽しみください」
変装したベルノが愛想良くワインを注ぐと、ダリウス司祭は十字を切るのもそこそこに、貪るように肉に齧り付いた。
禁欲と粗食を絶対の教義とする聖国において、油と肉、そして酒の味は、まさに脳を溶かすほどの劇薬だ。
「美味い……! おお、神よ! このような至福の味がこの世にあったとは!」
私は薄暗い洞窟の二階――マジックミラーで仕切られた監視部屋から、その滑稽な光景を冷ややかに見下ろしていた。
「完全に欲望に食いついたわね」
「ええ。彼ら上位の神官は、信者たちから吸い上げた膨大な『功徳』を帳簿にため込んでいますが、聖国内ではそれを贅沢品に換える手段がありませんでしたからね。……我々が持ち込んだ酒と肉は、彼らにとって喉から手が出るほど欲しい代物でしょう」
私の横で、バルトが呆れたように肩をすくめる。
「それで、お代の方は?」
「すでに頂いております。……これです」
バルトが差し出したのは、聖国の教会の印章が押された一枚の羊皮紙だった。そこには『功徳一万点を、無記名の信者へ譲渡する』という神官の公式なサインが記されている。
「ダリウス司祭は、この酒と肉、そして娼婦のような絹の衣服と引き換えに、自分の帳簿に貯まっていた『功徳一万点』を我々に譲渡しました。……彼は『神の恵みを異教徒から没収しただけだ』と自分に言い訳をしていましたがね」
「見事な腐敗っぷりね。これで私たちは、聖国の中で絶対的な価値を持つ『一万点分の信仰(お金)』をタダ同然で手に入れたことになるわ」
私は手の中の羊皮紙をピンと弾いた。
「さあ、仕入れ(サプライ)は完了したわ。次はこれを、小口の証券に分割して、一番必要としている人たちに売り捌く(貸し付ける)番よ」
私が視線を一階のフロアへ移すと、入れ替わるようにして、一人のみすぼらしい格好をした少女が、怯えた様子で地下取引所へと足を踏み入れてきた。
彼女の手は凍傷で赤く腫れ上がり、その体は栄養失調で今にも倒れそうに震えている。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん。……ひどい顔色だね。温かいスープでも飲むかい?」
カウンターに立っていたガストンが、威圧感を出さないように努めて優しく声をかけた。
「あ、あの……。ここは、その……『功徳』を前借りできる場所だと、鉱山の仲間から聞いて……」
少女はガクガクと震えながら、涙声で訴えた。
「弟が、熱病(熱病)で倒れてしまったんです! でも、私は怪我をしていて『光の魔石』を掘れず、今月の功徳が足りなくて……教会に行っても、祈りが足りないと薬を配給してもらえませんでした。このままでは、弟が死んでしまいます……!」
聖国の残酷な真実。
労働(魔石の採掘)ができなくなった弱者は、功徳を得られず、神の救済(配給)から切り捨てられるのだ。
「なるほど、事情は分かった。……安心しな。俺たちは神様じゃねえが、神様より確実にお前さんを救ってやれる」
ガストンはカウンターの下から、銀花会議の紋章と共に『功徳百点』と記された、美しく印刷された証書を取り出した。先ほどダリウス司祭から買い取った功徳を、小口に証券化したものだ。
「これは、教会の公式な印章が押された『功徳百点分』の証書だ。これを司祭に見せれば、弟さんの薬と、一ヶ月分のパンがもらえるはずだ」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、神様、ありがとうございます……!」
少女が泣き崩れて証書を受け取ろうとする。
「待ちな。俺たちは商人だ、タダで恵んでやるわけじゃねえ」
ガストンは証書をヒョイと持ち上げ、一枚の契約書を突きつけた。
「これは『借金』だ。利子は月二割。来月末までに、功徳百二十点分の『光の魔石』をこっそり鉱山からちょろまかして、ここに持ってくること。……できるかい?」
少女は一瞬だけ躊躇したが、弟の命を天秤にかけるまでもなく、決死の覚悟で力強く頷いた。
「やります……! 弟が助かるなら、どんなことでも!」
少女は契約書に血の滲む指でサインをし、功徳の証書と、ガストンがおまけで持たせた温かい肉まんを胸に抱えて、雪山へと駆け出していった。
その一部始終を二階から見届けていた私は、静かに笑みを深めた。
「完璧な循環ね」
上位の神官たちの『強欲』から功徳を安く買い叩き、それを証券化して、下位の信者たちの『生存欲求』に利子をつけて貸し付ける。
そして、利子として現物(光の魔石)を回収し、それをアークレインで売り捌いて莫大な利益を得る。
「……会長。あの少女は、教会の教えに背いて魔石を横流しするという『大罪』を犯すことになります。それでも、我々の取引所へやってくる信者は後を絶ちません」
バルトが、複雑な表情で呟く。
「当然よ。お腹を空かせた子供の前では、神様の『祈り』より、商人の『パン』の方が圧倒的に価値があるんだから」
私は二階から、次々と取引所にやってくる信者たちの姿を見下ろした。
彼らは皆、教会から見捨てられた者たちだ。そんな彼らにとって、この薄暗い地下取引所と、私たち銀花会議が発行する『功徳証券』こそが、真の救済の神となっていた。
「……信仰なんて、結局は数字よ。それを管理しているのが教会か、私たちかの違いでしかないわ」
私は冷徹な支配者の瞳で、聖国の根幹が音を立てて崩れ去っていくのを確信していた。
神の権威を証券化し、市場に解き放つ。
絶対不可侵の宗教国家は、モブ令嬢が持ち込んだ『資本主義の劇薬』によって、その内側から急速に、そして致命的に腐敗し始めていた。




