シーン1:究極の怠惰の終わりと、北からの異端審問
銀花銀行による大陸経済の完全制覇から、およそ半年。
季節は巡り、王立アークレイン学園はうららかな春の陽気に包まれていた。
「あーん、もう最高……。この購買部特製の『幻の三ツ星サンドイッチ』、毎日食べても飽きないわぁ」
学園の裏庭にある日当たりの良いベンチで、私は一人、至福の時を噛み締めていた。
ふかふかの白パンに挟まれた、分厚くてジューシーな特級ローストビーフ。一口かじるごとに溢れ出す肉汁と、鼻に抜ける爽やかなスパイスの香り。
大陸中の富が自動的に私の懐へ転がり込んでくるシステム(不労所得)を完成させた今、私の日々の最大の関心事は「いかにして誰にも邪魔されず、学園で美味しいものを食べて昼寝をするか」という、極めて崇高な目的のみに集約されていた。
「きゅんっ、きゅるるっ!」
隣では、すっかり丸々と太ったルンが、サンドイッチからこぼれ落ちたお肉の欠片を幸せそうに頬張っている。
(ああ、平和。これぞ私が求めていた完璧なモブライフ……。東の軍閥も西の帝国も、今頃は私の作った借金返済のスケジュールに従って、せっせと労働の汗を流していることでしょう。ふふふっ)
私はサンドイッチの最後の一口を飲み込み、満足げに伸びをした。
このままポカポカとした陽射しの中で、午後の授業をサボって昼寝に突入しよう。そう決意して目を閉じた、まさにその時だった。
「――会長。至福の時間を邪魔して申し訳ありませんが、緊急事態です」
「……」
私は目を閉じたまま、ピクリとも動かずに聞こえないフリをした。
「会長。起きていらっしゃるのは分かっています。ルンのお腹を撫でる手が止まっていますよ」
「……気のせいよ。私は今、夢の中で札束のベッドで泳いでいるところなの。緊急事態なら、レオンハルトかバルザック辺境伯にでも押し付けなさいな」
私がむすっとした声で返すと、ベンチの背後の茂みに擬態していた庭師姿の暗部の男――いや、変装したベルノが、重々しい溜息を吐いた。
「それが、彼らではどうにもならない事態なのです。……我が『銀花銀行券(紙幣)』が、公衆の面前で大量に焼却されました」
「……は?」
その言葉に、私はパチリと目を開け、ガバッと勢いよく振り返った。
「焼却された!? 誰がそんなもったいない……じゃなくて、恐ろしいことをしたの!?」
銀花銀行の紙幣は、今や大陸の基軸通貨だ。それを燃やすということは、物理的な富をドブに捨てるだけでなく、我が商会に対する明確な宣戦布告に他ならない。
ベルノは周囲に誰もいないことを確認してから、声を潜めて報告を続けた。
「場所は、大陸の最北端に位置する絶対不可侵の宗教国家――『聖国イグドラシア』です。昨日、彼らの国境付近で交易を行っていた我々の商隊が異端審問官に捕縛され、積荷の紙幣を全て『悪魔の紙切れ』として広場で火刑(焼却)に処されました」
「聖国、イグドラシア……」
私は眉間を揉みほぐした。
大陸北部の険しい霊峰に隔てられたその国は、独自の狂信的な教義を持ち、他国との交流を極端に制限している閉鎖国家だ。西の帝国でさえ、下手に手を出せば聖戦を呼び起こしかねないため、長年アンタッチャブルな存在として放置されていた。
「あそこって、そもそもお金(貨幣)の概念がない国よね?」
「はい。聖国イグドラシアの国内では、金貨も紙幣も一切流通していません。彼らの経済を回しているのは……『神への信仰心』です」
ベルノは呆れたような、しかし厄介極まりないという顔で説明する。
「彼らは教会で祈りを捧げ、労働奉仕を行うことで『功徳』と呼ばれるポイントのようなものを司祭から付与されます。そして、その功徳と引き換えに、教会から食料や生活必需品の配給を受ける……という、完全な宗教的共産主義を敷いています」
「なるほどね。お金の代わりに『信仰ポイント』で配給を受けるシステム。ある意味、究極の信用経済と言えなくもないわね」
私は腕を組み、冷ややかに目を細めた。
「で? そのカルト国家が、なぜ急に私たちの紙幣を燃やし始めたの?」
「我が銀花銀行の経済圏が拡大しすぎたためです。国境付近の聖国の民が、教会の厳しい配給(功徳)システムよりも、アークレインの商人が持ち込む便利な『紙幣』の存在を知ってしまったのです。……結果、こっそりと教会の目を盗んで紙幣を使い、密貿易を行う者が急増しました」
ベルノは持参した報告書を私に手渡す。
「教会の権威失墜を恐れた聖国の教皇庁は、ついに『銀花銀行券は、人々の魂を強欲で汚す悪魔の呪符である』という公式な教書を出しました。現在、聖国全土で紙幣の狩り出しと焼却が始まっています」
「……なるほど。自分たちの『信仰』を荒らされたから、物理的に燃やして対抗してきたってわけね」
私は手の中の報告書をクシャリと丸め、忌々しそうにベンチに放り投げた。
せっかく完成した私の完璧な不労所得システムと、究極のモブライフ。それを「悪魔の紙切れ」呼ばわりして燃やすなど、万死に値する。
「ねえ、ベルノ」
私は漆黒のコートの代わりの学園ブレザーのポケットに両手を突っ込み、極めて冷酷な、商会主としての笑みを浮かべた。
「宗教国家っていうのは、いつの時代も面倒なものよ。神様の名前を出せば、どんな不合理なルールでも正当化できちゃうんだから。……でもね」
「でも……?」
「神様の奇跡や信仰心だって、結局のところ『人々の欲』によって成り立っているのよ。彼らが私たちのシステムを悪魔と呼んで排除するなら……私は、彼らがすがりついているその『神様のシステム』そのものを、完全に証券化(商品化)して、市場の波に沈めてあげるわ」
「し、信仰を……証券化、ですか?」
ベルノが、またしても私の口から飛び出した規格外の悪魔的発想に顔を引きつらせる。
「ええ。お金を使わない国があるなんて、資本主義に対する冒涜よ。……午後の授業はサボるわ。本部へ戻って、バルトとガストンを呼びなさい。北の神様を相手に、新しいビジネスの始まりよ」
平和な昼下がりは終わりを告げた。
私は丸くなったルンを小脇に抱え、聖なる教義を金と欲望のシステムで塗り潰すための、新たな『経済戦争』の準備へと歩き出した。




