シーン7:平和なモブ令嬢の日常と、世界を回す見えざる手
帝国の無条件降伏と新皇帝レオンハルトの即位という、大陸全土を揺るがす歴史的ニュースから一ヶ月。
王立アークレイン学園は、涼やかな秋の風に包まれ、いつものように平和で長閑な空気が流れていた。
「ねえ、お聞きになりまして!? 西のヴァレリウス帝国で、あのレオンハルト様が新皇帝として即位されたそうですわ!」
「ええ、もちろんよ! 素晴らしいわ、あんなに美しくてお若い皇帝陛下が誕生するなんて。それに、帝国の経済を立て直すために『銀花銀行』と強固な同盟を結ばれたとか」
「銀花銀行……最近、お父様もその紙幣ばかり使っていますわ。一体どんな恐ろしい権力者が裏で操っているのかしら。噂では、頭が三つある強欲な老爺だとも言われていますけれど……」
教室の真ん中で、令嬢たちが興奮気味に最新のゴシップに花を咲かせている。
「……ふぁぁ」
私は教室の一番後ろ、窓際の後ろから二番目という完璧な『モブ席』で、こっそりと小さく欠伸を噛み殺した。
手元には難しそうな歴史の教科書を開いているが、もちろん内容は一文字も頭に入っていない。
「あら、リリアさん。退屈そうね」
前の席の男爵令嬢が、私に気付いてクスリと笑いかけてきた。
「ええ、少し。……皇帝陛下のお話とか、銀行の小難しい経済のお話なんて、私のような田舎の騎士爵の娘には縁遠い世界ですもの。想像もつきませんわ」
私が少しオドオドとした、いかにも『無害で地味な令嬢』の模範解答を返すと、彼女は同情するように深く頷いた。
「無理もないわ。私たちには、明日の小テストの範囲の方が重要ですものね。世界の情勢なんて、雲の上の偉い方々にお任せしておけばいいのよ」
「ふふっ、本当にその通りですわね」
私は完璧な愛想笑いを浮かべながら、心の中で盛大に毒づいた。
(雲の上の偉い方々(レオンハルトたち)、今頃、私の決めた来年度の予算編成と利上げの指示書を見て、胃薬をがぶ飲みしているはずよ)
彼が新皇帝として華々しくデビューした裏で、帝国の実質的なお財布(国庫)は完全に私が握っている。
レオンハルトは今や、大陸をまたに掛ける巨大金融帝国『銀花会議』の、西地区担当の優秀な支店長のようなものだ。
放課後。
私は誰にも怪しまれないように学園を抜け出すと、王都の中心にそびえ立つ白亜の『銀花銀行・本店』へと向かった。
当然、正面入り口からは入らない。裏路地に偽装された専用の隠し扉から入り、最上階の頭取室へと直行する。
「お帰りなさいませ、会長。学園生活はいかがでしたか?」
頭取室で待機していたベルノが、山積みになった書類から顔を上げて一礼した。
「相変わらず平和で退屈よ。……で、そっちの状況は?」
私が漆黒のコートを羽織り、革張りの重厚な椅子に腰を下ろすと、ベルノは銀縁眼鏡を押し上げながら誇らしげに報告を始めた。
「完璧です。大陸中の全ての物流と資金の決済が、我が銀花銀行のシステムに統合されました。東は魔物素材の鉱脈から、西は帝国の穀倉地帯まで。……現在、大陸全土で生み出される富の『三割』が、手数料や利子として、自動的にこの銀行に吸い上げられる仕組みが完成しております」
「三割。まあ、妥当なラインね。取りすぎても市場が死んじゃうし」
「きゅるっ!」
私の膝に飛び乗ってきたルンに、最高級の帝国産ローストナッツを剥いてやりながら、私は満足げに頷いた。
「それに、会長の目論見通り……大陸から『戦争』の火種が完全に消え去りました」
ベルノがしみじみと呟く。
「当然でしょう。戦争には莫大なお金(軍資金)がかかる。でも今、諸国が軍隊を動かそうと思っても、その資金を融資できるのは世界で唯一、私の『銀花銀行』だけだもの。私が許可しない限り、誰も剣を抜くことすらできないわ」
「はい。武力ではなく、完全な『経済による世界平和』の実現です。……もはや、神の御業に等しいかと」
ベルノをはじめ、バルト、セリア、ガストンたち商会の幹部たちは、今や私を単なる商会主ではなく、世界を導く絶対的な超越者として崇拝し始めている。少しやりすぎたかもしれない。
でも、私の本当の目的は、そんな大層なものではない。
「世界平和なんて、ただの副産物よ。……私が欲しかったのは、これよ、これ」
私は椅子の背もたれに深く身を沈め、窓から見える王都の美しい夕焼けを眺めながら、最高にだらしない笑みを浮かべた。
「絶対に誰も私を脅かさない『絶対安全な環境』と、何もしなくても勝手にお金が増え続ける『不労所得のシステム』。……これでようやく、私は心置きなく、誰にも邪魔されずにダラダラと平和なモブライフを満喫できるわ!」
「……会長。そのスケールの大きすぎる怠惰のために、大陸の経済システムを根底から作り変え、大帝国を一つ乗っ取ったと言うのですか……?」
ベルノが呆れたような、しかしどこか納得したような溜息を吐く。
「そうよ。究極の怠け者になるためには、究極の努力と権力が必要なの。……さて、明日の小テストの勉強はベルノに任せるわね。私はルンとお昼寝するから」
「……承知いたしました。歴史の年号ですね、完璧なカンペをご用意しておきます」
有能すぎる側近の返事に満足し、私は目を閉じた。
かつて、没落寸前の騎士爵家の娘として、ただ平穏に生きたいと願った少女。
彼女は剣も魔法も使わず、ただ『前世の経済知識』と『紙とインク』だけを武器にして、世界で最も強大で、最も見えざる支配者となった。
(あーあ、お金の計算もしなくていいなんて、最高だわ。……明日のお昼は、学園の購買で一番高いサンドイッチでも買い占めちゃおうかしら)
大陸の経済を支配する裏の女王は、頭の中でそんなちっぽけな贅沢を思い描きながら、暖かな夕日の差し込む頭取室で、幸せな眠りについた。
世界は今日も、彼女の掌の上で、紙幣という名の血流に乗って健やかに回り続けている。




