シーン6:大帝国の無条件降伏と、新たなる皇帝の誕生
帝国の市場から金貨が消失し、経済が完全に停止してから五日目。
誇り高きヴァレリウス通商帝国の帝城・謁見の間は、お通夜のような重苦しい沈黙と絶望に支配されていた。
「……ここにサインをすれば、我が帝国に『紙幣』を融資してくれるのだな」
玉座の下の階段で、膝をつくようにして羽ペンを握りしめているのは、第一皇子マクシミリアンだった。
わずか数日前、私を「ガキの女商人」と嘲笑い、紙幣をゴミだと吐き捨てた男の顔には、もうかつての傲慢さは微塵も残っていない。頬はこけ、目の下には濃い疲労の隈が刻まれていた。
「ええ。サイン一つで、帝国の市場には必要なだけの『銀花銀行券』が供給され、物流は即座に再開しますわ。……アークレインの倉庫で待機しているポーションや食料も、すぐに出荷させましょう」
私は彼を見下ろす位置に立ち、完璧な淑女の微笑みを浮かべながら、分厚い契約書を差し出していた。
マクシミリアンが震える手で目を通しているその契約書。
それは実質的な、帝国の『経済的無条件降伏』を意味する条文で埋め尽くされている。
第一条: 帝都ヴァルハイドの中心地に『銀花銀行・帝都支店』の設立を認可し、銀花銀行券を帝国の公式な法定通貨として採用すること。
第二条: 帝国の国庫に保管されている全ての『金塊』および『金貨』の管理権・所有権を、融資の担保として銀花銀行へ譲渡すること。
第三条: 今回の未曾有の経済危機を招いた責任を取り、マクシミリアン第一皇子は皇位継承権を放棄。次期皇帝の座を、レオンハルト公子へ譲位すること。
「……私の継承権だけでなく、帝国の金塊まで全て貴様の銀行のものにするだと……。国庫の金を奪われれば、我が国は完全に貴様の属国に成り下がるではないか……!」
マクシミリアンが血を吐くような声で抗議する。
「誤解なさらないでくださいませ。金塊をわざわざアークレインへ運ぶような野暮な真似はいたしませんわ。重くて輸送費がかかりますから」
私はフフッと笑い、扇子で口元を隠した。
「金塊は今まで通り、帝国の地下金庫に置いたままで結構です。ただ、その『所有者』の名義が、帝国から私(銀花銀行)へと書き換わるだけ。……見えない権利が移動するだけの、痛みのない平和な手続きですわ」
それが最も恐ろしいのだと、マクシミリアンも気づいているはずだ。
物理的な富はそこにあるのに、法律と契約の上では、もう彼ら帝国のものではない。指一本触れることすら許されないのだ。
「……兄上。もう諦めてください。我々は『時代』に敗北したのです。これ以上意地を張れば、明日にも帝都で暴動が起き、帝室そのものが民衆の手によって滅ぼされますよ」
私の背後に控えていたレオンハルトが、冷徹な声で引導を渡した。
「くっ……! レオンハルト、貴様っ……悪魔に魂を売りおって……!!」
ギリィッ、と。
マクシミリアンは歯から血が滲むほど強く噛み締めながら、ついに契約書に自らの名を書き殴った。そして、王家の証である印璽を力なく押し付ける。
ドスン、という重い音が謁見の間に響いた。
それは、何百年と続いた大陸西部の黄金の覇者が、たった十六歳の少女が持ち込んだ『紙切れ』の前に完全に屈服した音だった。
「ご英断、感謝いたしますわ。元・第一皇子殿下」
私は契約書を回収し、満足げに微笑んだ。
「きゅんっ!」
足元でルンが、新たな領土の獲得を祝って嬉しそうに鳴く。
「さて、レオンハルト次期皇帝陛下」
私は振り返り、帝国の新たな主となった美しい翡翠の瞳の少年に向かって、優雅なカーテシーを披露した。
「約束通り、あなたを玉座へ導きました。……これからは我が銀花銀行の最高の共同経営者として、帝国の経済発展にご尽力くださいませ」
「……ああ。君という絶対的な支配者がいる限り、帝国の経済は良くも悪くも永遠に安泰だろうからね」
レオンハルトは苦笑交じりに溜息を吐きながらも、その目には新たな時代を切り拓く野心が確かに燃えていた。
彼にとっても、旧態依然とした兄の体制を壊し、紙幣という無限の血液を手に入れたことは、帝国をさらに強大にするための劇薬となるはずだ。
***
その日の午後。
帝都の中心地にある巨大な広場に、仮設の『銀花銀行・特設窓口』が設置された。
「紙幣だ! 銀花銀行の紙幣が届いたぞ!!」
「これで商売が再開できる! アークレインから物資が買えるぞ!」
アークレインから魔導機関車と高速船を乗り継いで運ばれてきた大量の真新しい紙幣。それが窓口から放出された瞬間、死に絶えていた帝国の市場は、水を吸い込む乾いた砂漠のように一瞬にして息を吹き返した。
暴動寸前だった民衆は歓喜の声を上げ、商人たちは競って紙幣を手に取引を再開していく。
彼らはもはや、重くて不便な金貨のことなどすっかり忘れていた。自分たちの生活を救い、経済を回している『銀花の紋章が刻まれた紙』こそが、絶対的な正義であり、神であると完全に刷り込まれたのだ。
私は特命船の甲板から、その活気に満ちた帝都の様子を眺めながら、手すりに肘をついた。
「……これで、大陸の東から西まで、主要な経済圏は全て私の『紙幣』で塗り潰されたわね」
東の辺境から西の帝国まで、全ての物流と決済が『銀花銀行』のシステムを通過する。
どこで誰が何を買い、何が売れ、どこに富が集中しているのか。世界中の経済の鼓動が、王都の地下金庫にいる私の手元へとリアルタイムで集約されるのだ。
「武力による世界征服なんて、野蛮で非効率なだけよ。……最後に世界を統べるのは、見えない『信用』という名の鎖を握った者」
私は漆黒のコートを海風に靡かせ、悪役令嬢――いや、世界経済を支配する『裏の覇王』としての冷酷で美しい笑みを浮かべた。
ただ平穏なモブライフを送りたかっただけの少女の商売は、こうして一つの大陸を丸ごと飲み込み、ついに完成の時を迎えたのである。




