シーン6:完璧すぎる回答と、貴族たちの不満顔
「おお、アルフェイド。真剣な眼差しだな。よろしい、お前が答えてみろ」
バルガス先生の太い声が、静まり返った錬金術実習室に響き渡る。
その瞬間、私の頭の中でけたたましい非常警報が鳴り響く。
(やってしまった……! モブ令嬢として絶対にやってはいけない痛恨のミス。完全に気配を消していたはずなのに、原価計算とフィルターの目詰まり対策に集中しすぎて、顔の筋肉を『無能な生徒』に固定するのを忘れていた!)
ギィッ、と。
私が立ち上がる際、安物の木製椅子の脚が黒御影石の床を擦り、耳障りな音を立てる。
教室中の視線が、一斉に私へと突き刺さる。
前方の上位貴族の令嬢たちは、半ば振り返るようにして私を見ている。彼女たちの瞳には、「なぜあんな平民同然の地味な娘が、授業を止めているの?」という明白な苛立ちと侮蔑が浮かんでいる。
三十人近い生徒たちの視線がもたらす、物理的な重圧。
首筋にじわりと嫌な汗が滲むのを感じながら、私の脳内はスーパーコンピューター並みの速度で解決策の検索を始めている。
(どうする? ここでどう答えるのが『一番目立たず、かつ波風を立てない』のか)
選択肢その一。『分かりません』と俯いて沈黙する。
モブとしては王道の対応だ。しかし、相手は伝統と権威を重んじるバルガス先生である。ここで無知を晒せば、「騎士爵家の娘は基礎的な教養も足りていないのか!」と、最低でも十分間はねちねちと公開説教を受けることになる。それは結果的に悪目立ちの時間を引き延ばすだけで、リスクが高すぎる。
選択肢その二。『教科書通りの間違った答え』を言う。
四十二ページに書かれているであろう、この世界の標準的な模範解答。すなわち『火の魔力が強すぎると、月白根が持つ大地の魔力と反発を起こし、成分が空中に散逸してしまうからです』という、非科学的極まりないオカルト理論を口にする。
これなら先生は満足気に頷き、すぐに授業は再開されるだろう。
だが。
(……嫌だ。絶対に嫌)
私の魂の根底にある『商品開発部・主任研究員』としてのプライドが、強烈にその選択を拒絶する。
成分が散逸するのではない。熱変性によって酵素が死んでいるのだ。
真実を知りながら、あんな中学生の妄想のような非論理的な言葉を、自分の口から発声することなど絶対に耐えられない。
(なら、どうする? 科学的な事実を、この世界の人間に伝わる言葉に翻訳しつつ、あくまで『偶然思いついた』ように見せかけるしかない……!)
私は一度だけ短く息を吸い込み、少しだけおどおどとした、気の弱い令嬢の演技を顔に張り付ける。
そして、わざと自信なさげに、視線を泳がせながら口を開く。
「えっと……あの。月白根の成分が失われるのは……『熱』が原因ではないか、と……思います」
私の弱々しい声が響くと、前方の席から「くすっ」と小さな嘲笑が漏れる。
「何を当たり前のことを。薬草を煮出すのに熱を加えるのは当然でしょう?」
「あの方、本当に何もご存知ないのね」
貴族たちのさざ波のような冷笑。
バルガス先生も、失望したようにため息をつきかける。
「アルフェイド。熱を加えるのは錬金術の基本だ。私が聞いているのは、なぜその基本の工程で効力が落ちるのかという『理由』だぞ」
(ええ、そうですね。だから、その理由を今から、あなた方にも分かるように説明して差し上げます)
私は心の中で不敵に笑いながら、外見はあくまでおずおずと、続きの言葉を紡ぐ。
「い、いえ……私が言いたいのは、熱を『加えすぎている』ということです。えっと、例えば……卵を思い浮かべてみてください」
「卵、だと?」
バルガス先生の眉がピクリと動く。貴族の令嬢たちも、突然出てきた庶民的な単語に怪訝な顔をする。
「はい。卵は、常温なら中身は液体のままですが、お湯に入れて長時間熱すると、硬く茹で上がってしまいますよね。一度硬くなった卵は、冷やしても、絶対に元の液体には戻りません。……月白根の中にある『傷を治すための特別な成分』も、それと同じではないかと思うのです」
教室の空気が、微かに変わったのを感じる。
嘲笑していた令嬢たちの扇の動きが止まり、バルガス先生の目が僅かに見開かれている。
私は言葉のペースを、ほんの少しだけ『経営者』のそれに近づける。理路整然と、相手の脳に直接情報を叩き込むための、説得力を持ったトーンへと。
「月白根の有効成分は、非常に熱に弱い性質を持っています。ですから、三日三晩も高温で煮立ててしまえば、成分は卵のように硬く変質し、ポーションの底に『不純物』として沈殿してしまいます。……今、先生が配ってくださった小瓶の底に沈んでいる繊維の残骸が、まさにその『熱で死んでしまった成分の死骸』です。だから、効力が三割に落ちているのではないでしょうか」
しんと。
実習室の中から、一切の物音が消え失せる。
窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずりだけが、異様に大きく聞こえる。
バルガス先生は、手に持っていた白墨を黒板に押し当てたまま、完全に硬直している。
彼の視線は、教卓の上に置かれた自分の中級ポーションの瓶底と、私の顔を交互に凄まじい速度で往復している。
ポロッ、と。
先生の手から滑り落ちた白墨が、黒御影石の床に落ちて粉々に砕ける。その乾いた音が、静寂を破る合図になった。
「な、なんだその理論は……! 薬草の成分が、熱によって不可逆の変質を起こすだと……? 星の巡りや魔力の反発ではなく、物理的な温度そのものが原因だと、お前はそう言うのか!」
バルガス先生の声が、実習室の壁を震わせるほどに張り上げられる。
怒っているのではない。彼の中の錬金術師としての常識が、たった十六歳の少女の『卵の例え話』によって、根本から揺さぶられているのだ。
(あ、しまった。やりすぎた)
私は内心で舌を打つ。
論理を整理して伝える能力が高すぎたせいで、ただの思いつきというには完璧すぎる回答になってしまった。
「あ、あの! 違います、私、そんな難しいことは……ただ、お父様が昔、書斎で読んでいた古い異国の文献に、そんなことが書いてあったのを思い出しただけで……! 私自身の考えではありません!」
私は慌てて両手を振り、必死に『父の受け売り』という予防線を張る。我がアルフェイド家の父、ガイウスは元近衛騎士であり、様々な地方を巡った経験がある。彼なら奇妙な文献を持っていても不自然ではない。全てを不在の父のせいにして逃げる作戦だ。
「古い異国の文献……なるほど。確かに、東方の錬金術では温度管理を独自に研究している流派があると聞いたことがある。だが、それを月白根の抽出効率に結びつけるとは……」
バルガス先生はまだ興奮冷めやらぬ様子で、自分の顎髭をガシガシと撫で回している。
「素晴らしい……いや、極めて興味深い仮説だ、アルフェイド。お前の発言は、現在の王立錬金術研究所で一部の革新派が提唱している『低温抽出理論』に非常に近い。お前、本当にそれ以上のことは知らないのか?」
「は、はいっ! 卵の話は、うちの料理人が言っていたのを勝手にくっつけただけで……本当に、ただの思いつきです!」
私は顔を真っ赤にして(そういう演技をして)、これ以上は何も知らないというアピールを全力で行う。
バルガス先生は少し残念そうにしながらも、大きく頷く。
「よろしい。偶然とはいえ、本質を突いた見事な着眼点だ。アルフェイド、お前にはこの授業の平常点として加点を与えておこう」
「あ、ありがとうございます……」
私がぺこりと頭を下げて席に座ると、教室の空気が、先ほどとは全く違う種類の重たさに包まれていることに気づく。
前方の上位貴族の席から、私へと向けられる視線。
それは先ほどまでの『無関心な見下し』ではない。
「……何ですの、今の。偉そうに」
「たかが騎士爵の分際で、先生に褒められたからって……」
「どうせ、本当にただ本の内容を丸暗記していただけですわ。教養をひけらかすなんて、はしたない」
聞こえよがしの陰口が、毒をまとって飛んでくる。
朝の廊下で私を嘲笑っていた銀髪の伯爵令嬢などは、扇を握る手が白くなるほど力を込め、私を睨みつけている。
彼女たちにとって、自分たちが『泥水』と見下していた授業内容について、自分たちより身分の低い私が誰よりも深く理解し、教師を感嘆させたという事実が、強烈な屈辱なのだ。
(うわぁ……最高に面倒くさいことになったわね。これだから嫌なのよ、実力を隠しておくのって。一度ボロを出すと、周囲の自尊心を無駄に刺激してしまう)
私は机の下でこっそりとため息をつく。
これからの学園生活、彼女たちからの嫌がらせが少し増えるかもしれない。しかし、その程度のリスクは織り込み済みだ。いざとなれば、彼女たちの実家が依存している商流を少しだけ『調整』して、物理的な資金繰りの面から大人しくさせることもできるのだから。
「きゅんっ!」
鞄の中で、ルンが嬉しそうに短く鳴く。私が先生を言い負かした(ように見えた)ことが、小さなマスコットには誇らしかったらしい。
「リリア、すごい! 今の説明、私にもすごく分かりやすかったわ!」
隣の席から、ミレーユが身を乗り出して小声で囁いてくる。彼女の翡翠色の瞳は、尊敬と興奮でキラキラと輝いている。
「あはは……ただのまぐれだよ。お父様の本棚の隅っこにあった本を、たまたま読んでいただけだから」
私は苦笑いしながら、ミレーユの純粋な称賛を受け流す。
(ミレーユが感心してくれるのは嬉しいけれど、これ以上目立つのは絶対にNG。今日の残りの時間は、本当に、死んだふりでもして気配を消そう)
私は深く反省しながら、バルガス先生が再び黒板に向かって熱弁を振るい始めるのを見つめる。
しかし、私はこの時気づいていなかった。
『低温でも成分を壊さずに抽出できる技術』を持つ人間が王都に存在するという事実が、どれほどの価値を持つのかということを。
そして、私のこの小さな『完璧すぎる回答』が、巡り巡って、王都の医療体制そのものを揺るがす重大な伏線として、国家の中枢にまで届いてしまうことになるということを。
私はただ、早くこの退屈な授業が終わって、商会の執務室に戻り、昨日提出された美容液の増産計画書に目を通すことだけを、ひたすらに待ち望んでいた。




