シーン5:錬金術の授業と、前世の知識
重々しい鉄開きの扉を押し開けると、鼻を突く強烈な匂いが全身にまとわりついてくる。
それは乾燥させた薬草の青臭さと、酸化した金属の錆びた匂い、そして魔力石を熱した時に発生する独特の甘ったるい焦げ臭さが複雑に絡み合った、錬金術実習室特有の空気だ。
「ううっ……相変わらず、ここの空気は鼻が曲がりそうね」
隣を歩くミレーユが、制服の袖口で口元を覆いながら顔をしかめる。
私は目立たないように浅く頷きながら、指定された実習台へと向かう。
「そうだね。換気用の窓が少ないから、どうしても匂いが籠もっちゃうみたい」
私は適当な相槌を打ちながら、黒御影石で作られた頑丈な実習台を指先でそっと撫でる。
ひんやりとした石の感触の裏に、微かにザラつく嫌な感触がある。前の授業で飛び散ったであろう何らかの薬液が、完全に拭き取られずに乾燥してこびりついているのだ。
(……器具の洗浄不備は、化学実験において致命的な結果を招くというのに。この世界の錬金術師たちは、なぜこうも基礎的な衛生管理を軽視するのかしら)
内心で深くため息をつきながら、私は鞄から持参した清浄布を取り出し、誰にも気づかれないような自然な動作で自分の作業スペースだけを素早く拭き上げる。
鞄の中でルンが「きゅっ」と小さなくしゃみをする振動が伝わってくる。嗅覚の鋭い陽リスにとって、この実習室の環境はかなり過酷なはずだ。私は鞄の隙間から、匂いを中和する微香性のハーブを忍ばせた小袋をそっと差し込んでやる。
ぞろぞろと生徒たちが集まり、全員が実習台につき終わった頃、教室の奥にある準備室から恰幅の良い中年の男性教師が現れる。
黒いローブの裾を焦がし、顎髭に薬品の染みを作ったその人物は、この学園で錬金術の教鞭を執るバルガス先生だ。彼は伝統的な錬金術の権威を自負しており、新しい知識や簡略化された製法をひどく嫌うことで有名だった。
「静粛に。本日は座学ではなく、実物のポーションを用いた観察と成分解析を行う」
バルガス先生が野太い声で宣言し、教卓の上にどんっ、と重々しい音を立てて木箱を置く。
箱の中には、分厚いガラスで作られた試験管サイズの小瓶がずらりと並んでいる。
「各班に一本ずつ配布する。これは王都の市井で流通している一般的な『中級回復ポーション』だ。主に騎士団の平隊員や、中堅の冒険者たちが命を預ける重要な品である」
先生の指示に従い、実習助手の生徒が小瓶を配って回る。
私の目の前の黒御影石の台にも、その『中級回復ポーション』とやらがコトリと置かれる。
私は椅子に座ったまま、その小瓶の中身をじっと見つめる。
分厚く歪なガラス越しに見えるのは、どす黒く濁った深緑色の液体だ。瓶を少し揺らすと、ドロリとした重たい粘度を持って内壁にへばりつく。さらに目を凝らせば、液体の底の方には細かい繊維状の不純物が沈殿しているのが分かる。
コルクの栓越しにすら、泥水を煮詰めたような酷い青臭さが漏れ出している。
ミレーユが小瓶を覗き込み、露骨に嫌そうな顔をする。
「うわぁ……泥水みたい。騎士団の人たちは、怪我をした時にこんなに臭くて不味そうなものを飲まされているの? 罰ゲームじゃないんだから」
「……良薬口に苦し、と言うからね」
私はミレーユに当たり障りのない言葉を返しながら、頭の中では『前世の化学者としての魂』が激しい怒りと呆れで悲鳴を上げている。
(ひどい。ひどすぎるわ。中級回復ポーションの主成分は『月白根』と『ヒールグラス』のはず。月白根の有効成分である細胞賦活酵素は、摂氏六十度を超えると急速に変性してただのタンパク質の塊になってしまう。なのにこの深緑色……完全に百度以上の高温でグツグツと煮沸してしまっている証拠よ。有効成分の九割が死滅しているじゃない!)
私は唇を噛み締め、目の前の濁った液体を睨みつける。
(しかもこの沈殿物。薬草の繊維をまともに濾過すらしていない。不純物がこれだけ残っていれば、体内に吸収されるまでの時間が極端に遅くなる。即効性が命の回復薬で、胃腸での消化吸収プロセスを妨害する繊維質を残すなんて、商品開発の設計思想からして間違っているわ)
しかし、私の内心の嵐など知る由もないバルガス先生は、教壇の上で自慢げに胸を張っている。
「諸君、この深い緑色こそが、薬草の成分を限界まで引き出した証拠である。三日三晩、絶やすことなく魔力の炎で煮詰め、そこに錬金術師自身の治癒魔力を注ぎ込む。これこそが、我が王国が誇る伝統的なポーションの製法なのだ!」
(三日三晩も煮詰める!? 莫迦なの!? 酸化と熱劣化で成分が完全に死んでるわよ! 抽出効率を上げたいなら、細かく粉砕した薬草を常温のアルコール系溶剤に浸して超音波か魔力振動をかければ、たった二時間で透明度九割以上の高純度エキスが取れるのに!)
私は思わず立ち上がって教卓を叩き割りたくなる衝動を、必死の深呼吸で胃の奥底へと押し込む。
「さて、優秀なる上位貴族の諸君の中には、これよりも澄んだ上等なポーションを見たことがある者もいるだろう。だが、あれは一部の天才的な宮廷錬金術師のみが作れる特注品だ。市販品として量産できるのは、このレベルが限界なのだよ」
バルガス先生が、侯爵令嬢や伯爵令嬢たちが座る前方の席に向かって、ごまかすようにそう言い訳をする。
前方の席に座る令嬢たちは、扇で鼻を覆いながら退屈そうに頷いている。彼女たちにとって、騎士が飲むような市販のポーションなど、ただの泥水に等しいのだろう。
(……天才的な宮廷錬金術師のみが作れる、ね。笑わせないで)
私は机の下で、ギュッと拳を握り込む。
現在、騎士団の一部エリート部隊や王立療養院に秘密裏に納入されている、無色透明で甘い果実水のような味がする『特級回復ポーション』。
それを設計し、品質管理マニュアルを作り、一般の職人でも量産できるラインを構築したのは、宮廷錬金術師なんかじゃない。
他でもない、この教室の一番後ろの席で、息を潜めて座っている私自身だ。
『特級』と名乗ってはいるが、使っている薬草は目の前の濁った泥水と全く同じ、安価な月白根とヒールグラスだけ。
抽出温度を六十度以下に保ち、二段階の濾過フィルターを通し、最後にほんの少しの果実のシロップで匂いと味を調えただけだ。
特別な魔法の才能も、天才的なひらめきもいらない。ただ『正しい知識』と『温度管理』、そして『徹底した衛生観念』があれば、誰にでも安定して作れる工業製品だ。
「さあ、諸君。それでは教科書の四十二ページを開きなさい。このポーションの成分について、さらに深く学んでいくとしよう」
バルガス先生がチョークを手に取り、黒板に向かって無駄に複雑な魔法陣の図式を描き始める。
私は教科書を開き、パラパラとページをめくる。そこには、魔力の波長がどうの、星の巡りがどうのという、化学反応とは全く関係のない抽象的な精神論ばかりが書き連ねられている。
(濃度が低すぎる。不純物が多すぎる。こんなものを負傷した騎士の口に流し込めば、治る傷も治らない。治癒を助けるどころか、肝臓に無駄な解毒の負担を強いるだけの毒にも等しい欠陥品……。これが王都の『標準』だなんて、本当に吐き気がするわ)
私は目の前の小瓶を視界の端に追いやり、できるだけその姿を見ないようにする。
開発者としての私のプライドが、この劣悪な模倣品……いや、前時代的な遺物を徹底的に論破して解体しろと叫んでいる。
けれど、私は学園では空気のようなモブ令嬢。
こんなところで前世の化学知識を披露して目立つわけにはいかない。
私は必死に唇を噛み、表情筋を完全に固定して、退屈な授業に耐え続ける無個性な生徒の演技を続ける。
「きゅ……」
鞄の中で、ルンが私を慰めるように、小さな爪で私の太ももをトントンと優しく叩いている。
(ありがとう、ルン。大丈夫、私は絶対にボロを出さない。このまま空気のように、誰にも気づかれずにこの授業をやり過ごすわ)
私は鉛筆を手に取り、黒板の図式を写すふりをしながら、頭の中では自分の商会の次期ポーション生産ラインにおける、濾過装置の目詰まり対策の計算を始めることにした。
その時だった。
「――では、この中級ポーションにおいて、なぜ月白根の効力が三割程度しか発揮されないのか。その理由を答えられる者はいるか?」
バルガス先生が不意に振り返り、教室全体に向かって問いを投げかけた。
その問いの答えなら、私は先ほどから頭の中で何十回と反芻している。
『抽出温度が高すぎるから』だ。
だが、当然私は手を挙げない。教室中の生徒たちも、退屈そうに目を逸らすか、教科書に目を落とすばかりで、誰一人として答えようとする者はいない。
バルガス先生の視線が、教室の中をねっとりと這い回る。
そして、不運なことに、黒板を見るふりをして原価計算に没頭していた私の真っ直ぐな視線と、先生の視線が完全に交差してしまった。
「おお、アルフェイド。真剣な眼差しだな。よろしい、お前が答えてみろ」
びくり、と。
私の肩が不自然に跳ね上がる。
最悪のタイミングで、私は目立たないモブ令嬢として絶対に避けるべき『教師からの指名』を受けてしまったのだ。




