シーン4:親友ミレーユと、大流行の新作石鹸
重厚な樫の木の扉を両手で押し開けると、朝礼前の教室に渦巻く喧騒が全身を包み込む。
窓から差し込む斜光が、宙を舞うチョークの粉をキラキラと光の粒に変えている。生徒たちは思い思いのグループを作り、週末の予定や流行のドレス、あるいは家の領地経営についての話題に花を咲かせている。
私は誰の視線も引かないよう、教室の隅――一番後ろの窓際という、絵に描いたような目立たない席へと一直線に向かう。
椅子を引き、鞄を机の横のフックに掛ける。そのわずかな振動で、鞄の中に潜んでいたルンがひょっこりと顔を出す。
「きゅるっ」
「おはよう、ルン。もう出てきても大丈夫だよ」
私が声をかけると、ルンは身軽な動作で鞄から這い出し、私の膝の上へと着地する。そのままくるくると三回ほど回り、一番居心地の良いポジションを見つけて丸くなる。
教科書と羽ペンを机の上に並べ、私は窓の外に広がる王都の景色に視線を逃がす。
今日一日、誰とも言葉を交わさず、空気のように気配を消して過ごす。それが私の完璧な学園生活の計画だ。
「リリア! おはよう!」
背後から、弾むような明るい声が私の計画を軽やかに打ち砕く。
振り返るより先に、ふわりと、とても清潔で華やかな香りが鼻腔をくすぐる。
それは、朝露に濡れた白百合と、微かな柑橘系をブレンドした爽やかな香り。
(……この香りの立ち上がり方。抽出したてのエッセンシャルオイルが、体温で完璧に揮発している証拠ね。肌の水分量も申し分ないわ)
私が内心で品質検査を終えると同時、机の前に一人の令嬢が身を乗り出してくる。
肩口で切りそろえられた、艶やかな亜麻色の髪。大きな翡翠色の瞳には、隠しきれないほどの好奇心と親愛の情がキラキラと輝いている。
彼女の名前は、ミレーユ・ローゼン。
歴史ある伯爵家の令嬢でありながら、取り巻きを作ることを嫌い、なぜか学園で最も身分の低い私にばかり話しかけてくる、この学園における私の唯一の友人だ。
「おはよう、ミレーユ。今朝も早いね」
「もう、リリアの登校が遅いのよ。ずっと待ってたんだから」
ミレーユは悪戯っぽく唇を尖らせた後、周りを気にするように少しだけ声を落とす。そして、内緒話でもするように顔を近づけてくる。
「ねえ、聞いて! 昨日、ようやく手に入れたの。白百合の商会から出た新作の『真珠肌石鹸』!」
その名前が出た瞬間、私の心臓がほんの少しだけ跳ねる。
私が朝の馬車の中で計算していた、あの新作石鹸だ。
「……へえ、あの予約待ちがすごいっていう石鹸?」
私はあくまで『流行に疎い下級貴族』の顔を崩さず、小首を傾げてみせる。
「そう! お父様に泣きついて、なんとか一つだけお屋敷に届けてもらったの。それでね、昨日の夜に使ってみたんだけど……もう、本当に驚いたわ。新作の石鹸、すごく良かった!」
ミレーユの瞳が、熱を帯びてさらに輝きを増す。
彼女は自分の両頬を両手で包み込み、うっとりとしたため息を漏らす。
「泡立てネットを使わなくても、手だけで生クリームみたいにきめ細かい泡が立つのよ。それに、洗い上がりが全然突っ張らないの。普通の石鹸みたいに肌の脂を全部持っていかれるんじゃなくて、薄い水分のベールが肌を包んでくれているみたいな……とにかく、魔法みたいな使い心地だったわ!」
(当然よ。従来の高温で一気に炊き上げる製法を捨てて、熱を加えない『冷製法』を採用しているのだから。製造から完成まで三十日以上の熟成期間を設けることで、植物油に本来含まれている天然の保湿成分であるグリセリンを一切壊さずに石鹸の中に閉じ込めている。きめ細かい泡立ちは、配合した真珠貝の微細パウダーが起泡剤として働いている証拠ね)
ミレーユの興奮した感想を聞きながら、私の頭の中では製造工程の苦労と、狙い通りの効果が顧客に届いているという事実が結びつき、歓喜のファンファーレが鳴り響いている。
自分が計算し尽くして生み出した商品が、目の前で、一切の忖度なしに絶賛されている。商品開発者として、これ以上の喜びはない。
「ふふっ、ありがとう」
嬉しさのあまり、思わず私の口からそんな言葉が滑り落ちる。
「え?」
ミレーユがきょとんと目を丸くする。
しまった、と私は内心で舌を打つ。ただのモブ令嬢が、他所の商会の石鹸を褒められてお礼を言うのは絶対におかしい。
「あ……えっと、その」
私は慌てて視線を泳がせ、膝の上のルンを撫でる手つきを少しだけ早める。
「ミレーユがすごく嬉しそうに話すから、なんだか私まで嬉しい気持ちになっちゃって。……でも、作った人が今のミレーユの言葉を聞いたら、きっとすごく喜ぶと思うよ」
何とか言葉を継ぎ足し、私は自然な笑顔を作って誤魔化す。
ミレーユは一瞬だけ不思議そうな顔をしたものの、すぐにパッと花が咲くような笑顔に戻る。
「ふふ、そうね! 開発した錬金術師か薬師の人が誰かは知らないけれど、お礼の手紙を書きたいくらいよ。本当に、あの商会の出す商品はいつも私たちの期待を飛び越えてくるんだから」
ミレーユは自分の白く滑らかな手の甲を見つめ、満足そうに頷いている。
彼女の実家であるローゼン伯爵家は、決して裕福な家ではない。領地の収入も安定しているとは言えず、彼女自身、無駄な浪費を嫌う堅実な性格だ。
だからこそ、彼女は家柄やブランドの名前だけで物を買わない。本当に自分の目で見て、触れて、価値があると判断したものだけを評価する。
そんな彼女の審美眼を、私は商売人として、そして友人として深く信頼している。
「きゅっ、きゅる!」
ルンが私の膝から立ち上がり、机の上に身を乗り出してミレーユの指先に向かって鼻をヒクヒクとさせている。ミレーユの指から漂う、石鹸の甘い香りに惹きつけられているらしい。
「あ、ルンちゃんもこの香りが分かるの? 良い匂いでしょう?」
ミレーユがそっと指先を差し出すと、ルンは小さな前足で彼女の指をきゅっと掴み、頬ずりをするように擦り寄る。
「こら、ルン。ミレーユの指を食べちゃ駄目だよ」
「ふふっ、大丈夫よ。それにしても、リリアの周りはいつも穏やかでいいわね。廊下の方では、朝から派手な香水の匂いを撒き散らしている人たちがいて、少し疲れちゃった」
ミレーユはわざとらしく肩をすくめてみせる。間違いなく、先ほど私がすれ違った伯爵令嬢たちのグループのことだ。
「ミレーユも、あっちのグループに入れてもらえばいいのに。伯爵令嬢なんだから、資格は十分にあるじゃない」
私が少し意地悪な質問を投げかけると、ミレーユは心底嫌そうな顔をして首を横に振る。
「冗談じゃないわ。誰かの悪口でしか盛り上がれないお茶会なんて、時間の無駄よ。私はね、本当に価値のあるものと、本当に信頼できる人とだけ一緒にいたいの。……だから、私はリリアと話している時が一番楽しいわ」
ミレーユは一切の裏表のない、真っ直ぐな瞳で私を見つめる。
その言葉に、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。
彼女は私の正体を知らない。私が王都の経済を握る商会主であることも、彼女が感動した石鹸を作った張本人であることも。
それでも、彼女は『一代限りの騎士爵令嬢』という一番底辺の肩書きしか持たない私を、対等な友人として選んでくれている。
(……この学園で私が得た一番の利益は、間違いなくミレーユという存在ね。絶対に、彼女のこの笑顔と信頼だけは裏切らないようにしよう)
私は膝の上のルンをそっと撫でながら、心の中で固く誓う。
キィィィン、と。
学園の始まりを告げる、魔力を帯びた澄んだ鐘の音が教室中に鳴り響く。
生徒たちが慌ただしく自分の席へと戻り始め、教室の空気が一気に引き締まる。
「あ、もう授業の時間ね。一時間目は……錬金術の合同実習だわ。移動しなきゃ」
ミレーユが名残惜しそうに私の机から離れる。
「うん。実習室でまたね」
私が手を振ると、ミレーユは小走りで教室の前方へと戻っていく。
彼女の背中を見送りながら、私は机の上の教科書を鞄にしまい込み、錬金術の教本だけを手に取る。
(錬金術、ね……。また既存の、非効率極まりない薬草の煮込み作業を見せられるのかしら)
前世の知識を持つ私にとって、この学園の錬金術の授業ほど退屈で、そして『ツッコミどころ』に満ちた時間はない。
私は小さくため息をつき、ルンを鞄の中に隠して、重い足取りで実習室へと向かうための立ち上がる。




