シーン7:発動する毒薬(ポイズンピル)と、紙屑になった帝国の札束
それから一週間。
ヴァレリウス帝国による王都の優良工房への強引な買収攻勢は、まさに嵐のような勢いで進められていた。圧倒的な資金力で権利書を買い漁る彼らの動きは、誰の目にも「帝国の完全勝利」に映っていた。
うららかな春の陽射しが降り注ぐ、王立アークレイン学園の薔薇園。
私はガゼボ(西洋風あずまや)のテーブルで、一人静かに紅茶を傾けていた。
「……随分と余裕そうだね、リリア嬢」
足音もなく現れたのは、レオンハルト・フォン・ヴァレリウス公子だった。
今日の彼は、いつにも増して誇り高く、その翡翠の瞳には絶対的な勝者の余裕が満ち溢れていた。
「ごきげんよう、レオンハルト様。お天気も良いですし、紅茶が美味しいものですから」
私がモブ令嬢の微笑みで返すと、レオンハルトは向かいの席に優雅に腰を下ろした。
「強がるのは自由だが、現実を直視した方がいい。……今日のお昼をもって、我が帝国は王都における主要な魔導具工房および薬師ギルドの『四割の権利書』の買い占めに成功した」
レオンハルトは懐から、分厚い権利書の束をテーブルの上にドンッと置いた。
「アークレインの法によれば、三分の一以上の権利を持つ者は、経営陣の解任や生産ラインの変更を強行できる。……君たちが築き上げた『アークレイン・スタンダード』の認定工房は、今日から全て、我がヴァレリウス帝国の傘下として働くことになる。君たちの負けだ」
絶対的な資本の暴力。
彼の言葉通りなら、銀花会議の生産ラインは完全に帝国の手に落ち、私たちは王都での足場を失うことになる。
だが、私は紅茶のカップをソーサーにコトリと置き、フフッと小さく笑い声を漏らした。
「四割の権利書、ね。……レオンハルト様、一つ質問してもよろしいかしら?」
「負け惜しみなら聞こう」
「その権利書が『四割』だというのは、一体いつの時点での計算ですの?」
「……何?」
レオンハルトの美しい眉が、微かに顰められた。
その時である。
「公子様!! レオンハルト公子様!!」
薔薇園の入り口から、帝国の制服を着たレオンハルトの側近が、顔を真っ青にして転がるように駆け込んできた。彼は息を切らし、信じられないものを見るような目でテーブルの上の権利書を指差した。
「ど、どうした。騒々しい」
「ほ、報告いたします! 我々が多額の資金を投じて買い集めた各工房の権利書ですが……現在の持ち分比率が、四割どころか『五分(5%)』以下にまで急落しております!!」
「……は?」
レオンハルトは絶句し、側近を鋭く睨みつけた。
「馬鹿なことを言うな! 私は確かに、発行されている全権利書の四割を買い占めたのだぞ! なぜ五分に下がる!」
「そ、それが……! 今朝方、突如として各工房から『銀花会議』に対して、これまでの十倍にも及ぶ膨大な数の『新しい権利書』が超低価格で発行されたのです!! 全体の数が増えたため、我々が買い占めた権利書の割合が、水で薄められたように激減してしまい……っ!」
側近の悲痛な報告を聞き、レオンハルトの翡翠の瞳が限界まで見開かれた。
彼はバッと私の方を振り向く。
「……き、貴様……! 一体、何という魔術を使った!!」
「魔術なんて使っていないわ。ただの『契約』よ」
私は立ち上がり、漆黒のコートではなく学園の制服姿のまま、冷徹な商会主の目つきで彼を見下ろした。
「私たちが事前に結んでおいた『新株予約権』の契約。……第三者が権利書の三割を強引に買い占めた瞬間、自動的に私たち銀花会議に新しい権利書が大量に発行される仕組み(ポイズンピル)よ」
「新しい権利書が……自動で、だと……?」
「そう。あなたが莫大な金貨を支払って集めたその『四割』は、全体が膨れ上がったことで、今や経営に何の口出しもできない『ただの紙屑』に成り下がったのよ。……お疲れ様、帝国の莫大な資本を、自らドブに捨ててくれて」
私の宣告に、レオンハルトの顔から完全に血の気が失せた。
彼の誇っていた「圧倒的な資本の暴力」は、私が仕掛けた「金融の罠」によって、見事に自爆へと誘導されたのだ。
「ば、馬鹿な……。そんな理不尽な契約が、法的に認められるはずが……!」
「あら、アークレインの通商法には『工房の主と出資者の合意に基づく権利の新規発行』を禁じる条文なんて、一つも存在しないわ。私たちは、完全に合法的な手段であなたの乗っ取り(M&A)を防いだだけよ」
私はテーブルの上に置かれた、レオンハルトの権利書の束を指先でツンと突いた。
バサリと、無価値になった紙束が崩れ落ちる。
「……っ!!」
レオンハルトはギリッと歯が砕けんばかりに奥歯を噛み締め、両手でテーブルの端を強く握りしめた。彼の完璧な王子様の仮面は粉々に砕け散り、そこには致命傷を負った若き狼の、屈辱と絶望に満ちた素顔が露わになっていた。
「レオンハルト公子。あなたが仕掛けてきたのは、製品の質でも価格でもない、企業の所有権を奪うという『金融戦争』よ。……でも、その分野においては、あなたたちは百年遅れているわ」
私は優雅にカーテシー(淑女の礼)を披露する。
「お勉強になりましたか? これが、アークレイン王国の……いえ、『銀花会議』の商売のやり方です。今後とも、良き交易相手でいられるといいですわね」
私は呆然と立ち尽くすレオンハルトと側近をガゼボに残し、静かに踵を返した。
「きゅんっ!」
鞄の中で、ルンが勝利を確信したように短く鳴いた。
(これで、帝国の物理的な不当廉売も、資本による買収(M&A)も、全て完全にへし折った。……彼らが王都の市場に食い込む隙は、もう一ミリも残っていないわ)
春の風が、薔薇の甘い香りを運んでくる。
海を越えてやってきた巨大な黒船は、モブ令嬢が張り巡らした見えない防波堤と毒薬の前に、何も奪えぬまま完全に座礁したのだ。




