シーン5:図書館の密会と、狼の反撃(M&A)
王立アークレイン学園が誇る、蔵書数数万冊を誇る大図書館。
放課後の静寂に包まれたその場所で、私は分厚い『王国通商法・判例集』を広げ、一人静かにページをめくっていた。
『アークレイン・スタンダード』の施行から数日。
王都の市場からは帝国の粗悪品が完全に一掃され、私の目論見通り、帝国の商品が審査機関に持ち込まれても「書類の不備」「追加の安全性テスト」といった名目で延々と塩漬けにされる事態が続いていた。
(よし。これで帝国の商品流通は完全にストップしたわ。毎日港に停泊している彼らの輸送船の維持費だけでも、莫大な赤字が垂れ流されているはずよ)
完璧な防衛戦の成功に、私は心の中で小さく祝杯を挙げていた。
「素晴らしい手際だ。まさか、あの短期間で王家を動かし、新しい『法律』という名の関税障壁を作り上げるとはね」
不意に。
静寂な図書館の空気を切り裂くように、頭上から滑らかな、しかしどこか冷たい声が降ってきた。
「……!」
私が顔を上げると、向かいの席にいつの間にか一人の少年が腰を下ろしていた。
プラチナブロンドの髪に、宝石のような翡翠の瞳。
ヴァレリウス通商帝国からの特待留学生、レオンハルト公子だった。
「……ごきげんよう、レオンハルト様。何か御用でしょうか? 私、難しい本はよく分かりませんので、お勉強の質問なら他の方を……」
私は瞬時に『地味で無害なモブ令嬢』の仮面を被り、オドオドとした視線で彼を見た。
しかし、レオンハルトは私の三文芝居など全く気にかける様子もなく、翡翠の瞳を細めて私を真っ直ぐに射抜いた。
「見事なマッチポンプだったよ。事故の発生を予期し、あえて泳がせ、絶望のどん底に突き落とした直後に完璧な救済を行う。……我が帝国の商人たちもよくやる手だが、あそこまで鮮やかに群衆の心理を操り、おまけに国家権力まで巻き込んで法制化してしまうとは。銀花会議の『裏のトップ』は、よほどの化け物らしい」
彼の言葉に、私の心臓がドクンと嫌な音を立てる。
「銀花……会議? 何のことですか? 私はただの騎士爵の娘で……」
「隠さなくてもいい。君が裏のトップだという確証はないが……先日の東部遠征で、君の父親であるガイウス・アルフェイド卿が不自然なほど完璧な兵站を維持したことは知っている。そして、君のその手」
レオンハルトの視線が、私が本を押さえている手に向けられた。
「火傷の痕が完全に消えかけているね。……それほどの再生効果を持つ特級ポーションは、現在、銀花会議のトップ層しか独占していないはずだ。ただの下級貴族の令嬢が使える代物じゃない」
(……っ、鋭い。この男、ただ顔が良いだけの公子じゃないわ)
私の警戒度が最大まで跳ね上がる。
しかし、ここで動揺を見せれば彼の思う壺だ。私は本をパタンと閉じ、ふわりと無害な微笑みを浮かべた。
「レオンハルト様は、ずいぶんと想像力が豊かでいらっしゃるのね。……でも、もしあなたの言う『裏のトップ』が私だとしたら、どうなさるおつもり? この国では、帝国の商品はもう二度と売れませんわよ」
私の挑発的な言葉に、レオンハルトはフッと口角を吊り上げた。
その顔は、学園の令嬢たちに見せる優雅な王子様のそれではなく、獲物の喉首を狙う『狼』の顔だった。
「確かに、『輸入』という形ではね。アークレイン・スタンダードの審査機関は、君たちの息のかかった官僚で埋め尽くされている。正面から挑んでも、何年も待たされるだけだろう」
レオンハルトは身を乗り出し、私の耳元で囁くように言った。
「だが、法律というものは必ず抜け道がある。……新しい基準は『アークレイン国内で、認定を受けた商人・工房が生産した商品』であれば、自由に販売できるルールだね?」
「……ええ、そうよ」
「ならば、簡単なことだ。我がヴァレリウスの圧倒的な資本を使って、すでに認定を受けているアークレイン国内の優良な商会や工房を、丸ごと買収(M&A)してしまえばいい」
「……っ!!」
私のモブ令嬢の仮面が、一瞬だけ剥がれ落ちた。
企業買収。M&A(Mergers and Acquisitions)。
前世の資本主義社会では当たり前の手段だが、このファンタジー世界において、そこまで高度な経済概念を当然のように振りかざす人間がいるとは想定外だった。
「輸入がダメなら、現地法人を乗っ取る。……王都にある中堅の薬師ギルドや魔導具工房のいくつかに、すでに帝国から莫大な資金援助(買収提案)を持ちかけている。借金に苦しんでいる工房は、喜んで我が帝国の傘下に入ったよ」
レオンハルトは翡翠の瞳を酷薄に輝かせる。
「彼らはすでに『認定』を持っているアークレインの商人だ。彼らの工房で、我が帝国の技術を使った商品を製造・販売する。……これなら、君たちの作った忌々しい防波堤は、一切機能しない。違うかい?」
私はギリッと奥歯を噛み締めた。
関税や輸入制限の壁を作っても、外資が直接国内の企業を買い叩いてしまえば、内部から市場を食い荒らされる。完全に資本の暴力による『敵対的買収』だ。
「……王国の商人たちの誇りを、舐めないことね。お金だけで彼らの魂までは買えないわ」
私が低い声で反論すると、レオンハルトは楽しげに喉を鳴らして笑った。
「誇り? 商人の魂? それは金貨何枚で買えるのかな? 君も商人なら分かっているはずだ。最後に勝つのは、感情ではなく『圧倒的な数字(資本)』だということを」
レオンハルトは立ち上がり、私に向かって優雅な一礼を捧げた。
「宣戦布告に来たんだ。もし君が本当に『銀花会議のトップ』なら……これから始まる帝国の【大買収劇】から、君の可愛い市場を死ぬ気で守ってみせるといい。期待しているよ、リリア・アルフェイド嬢」
彼はそれだけ言い残し、足音も立てずに図書館から去っていった。
取り残された私は、広げられた『王国通商法』の本を睨みつけながら、震える手で強く拳を握りしめた。
(やられた……! 製品の質や価格の勝負じゃない。彼らは企業の『所有権』そのものを奪いに来ている!)
このまま帝国の買収劇が進めば、銀花会議の足元を支える下請けの工房や中堅商会が次々と寝返り、最終的には私たちの組織そのものが内部崩壊を起こしてしまう。
「……きゅぅ」
鞄の中で、ルンが私の放つ緊迫した空気を察知して身を縮めている。
「大丈夫よ、ルン。……いくら相手が巨大資本の帝国だろうと、私の築き上げたこの経済圏を、好き勝手に荒らさせるもんですか」
私は深呼吸をして、冷静な商会主の頭脳をフル回転させ始める。
敵対的買収(M&A)に対抗するための手段。ポイズンピル(毒薬条項)、ホワイトナイト(白馬の騎士)、あるいは逆買収。前世の知識の引き出しから、使える武器を全てテーブルの上に引っ張り出すのだ。
「レオンハルト・フォン・ヴァレリウス。……あなたが資本(お金)の暴力で来るなら、私は株式の魔術で応戦してあげるわ」
静かな図書館の片隅で。
モブ令嬢と若き帝国の狼による、国境を越えた血で血を洗う『金融戦争』の火蓋が、今、完全に切って落とされた。




