シーン5:蘇る軍勢と、東部交易網の覇権
翌朝。
狼叫の谷を覆っていた冷たい雨雲は去り、清々しい春の朝日が谷底を照らし出していた。
「おう! お前もちゃんと石鹸で手を洗ったか? 支給された『携帯消毒液』を傷口に塗るのを忘れるなよ!」
「ああ! 防寒軟膏のおかげで足の指の感覚も戻ったし、糧食の腹持ちが良くて力が漲ってくるぜ!」
野営地に響き渡る声は、昨晩の死に絶えそうだった幽鬼の呻きとは打って変わり、活気に満ち溢れていた。
マダム・セリアが開発した純石鹸と消毒液の効果は絶大だった。泥と血にまみれていた兵士たちは清潔さを取り戻し、バルトの軟膏によって凍傷は劇的に改善。そしてガストンの戦闘糧食が、彼らの肉体の底から闘争心を呼び覚ましていた。
私は高台の天幕の前で、淹れたての温かいお茶を飲みながら、眼下で出撃の準備を整える三千の軍勢を見下ろしていた。
「……信じられん。たった一晩で、あれほど死にかけていた軍が、平時以上の士気を取り戻すとは」
私の背後から、重々しい足音が近づいてくる。
振り返ると、そこには隈の消えない疲労した顔ながらも、身嗜みだけは整えたバルザック辺境伯が立っていた。昨夜の屈辱的な敗北を経て、彼の目から傲慢な光は消え失せ、代わりに得体の知れない怪物を見るような畏怖の念が宿っている。
「おはようございます、辺境伯閣下。兵士の皆さんの顔色が良くて何よりですわ」
私はティーカップをソーサーに置き、余裕の笑みを向ける。
「……約束の誓約書だ。私の個人資産から、指定の口座へ金貨を支払う手続きを済ませた」
バルザックが、血の滲むような思いでサインした分厚い羊皮紙を差し出す。
ベルノがそれを受け取り、素早く内容を確認して私に小さく頷いた。
「ありがとうございます。これで昨夜の『お買い物』の精算は完了ね」
「貴様ら商人の力を、私は侮っていた。精神や気位だけでは、飢えも寒さも凌げない。……戦場を支えているのは、泥にまみれて物資を運ぶ者たちの計算と執念だったのだな」
バルザックは、谷底で立ち働く銀花会議の運び屋たちを見つめながら、絞り出すように自らの非を認めた。
東部の猛将として名を馳せた男が、一介の少女に完全に兜を脱いだ瞬間だった。
「分かっていただけたなら結構よ。……でも、私の仕事はまだ終わっていないわ」
私は懐から、別の真新しい羊皮紙を取り出し、バルザックの胸元へ突きつけた。
「な、なんだこれは……。まだ私から搾り取るつもりか!?」
バルザックが身構える。
「搾り取る? 違うわ。これは『契約書』よ」
私は羊皮紙を広げ、その文面を指差す。
「今回の遠征はまだ始まったばかり。魔物生息域での本格的な戦闘はこれからよ。……そこで、我が銀花会議が、この遠征における全物資の補給を『正規の軍属』として請け負うわ。ただし、物資の価格は通常の二倍。そして、この戦争が終わった後、東部辺境における主要街道の『独占交易権』と、五年間の『関税免除』をいただくわ」
「な……っ!? ど、独占交易権に関税免除だと!? 東部の経済を丸ごと乗っ取る気か!」
「その通りよ。あなたの領地の経済は、私が責任を持って潤してあげるわ」
私は一歩踏み出し、バルザックを真っ直ぐに見据える。
「閣下。あなたは軍を指揮することに集中しなさい。兵士が飢える心配も、剣が錆びる心配も、もう二度とさせない。私が後ろにいる限り、あなたの部下は一人たりとも無駄死にさせないわ。……三千の命を預ける対価として、東部の商圏を私に差し出しなさい」
圧倒的な自信と、揺るぎない覚悟。
バルザックは、目の前の十六歳の少女が、もはやただの商人ではなく、国家の血流を自在に操る『女王』であることを痛感させられていた。
「……っ」
バルザックは小さく息を吐き出すと、腰の剣帯から羽根ペンを引き抜き、震える手で契約書にサインを書き殴った。
「……背後は任せるぞ、リリア・アルフェイド。この遠征、必ず勝利で終わらせてみせる」
「ええ。期待しているわ、辺境伯閣下」
契約書を受け取り、私は完璧な淑女の礼で彼を送り出した。
「きゅるっ!」
ルンが私の足元で、新しい契約の成立を祝うようにピョンピョンと跳ね回る。
「やりましたね、会長。これで東部辺境の商流は、完全に銀花会議の掌の上です」
ベルノが眼鏡を光らせながら、興奮気味に告げる。
「ええ。ただの十倍の罰金じゃ、一時的な利益にしかならないもの。この戦争を利用して、私たちの経済圏を王国全土に拡大する。それが私の本当の狙いよ」
私は風に翻る漆黒のコートを押さえながら、谷底から進軍を開始する三千の軍勢を見送った。
高らかな行軍のラッパが鳴り響き、士気を取り戻した兵士たちが、魔物の待つ山脈の奥深くへと足を踏み入れていく。
前線で血を流すのは騎士たちだ。
しかし、彼らの命を繋ぐ血脈は、今、完全に私が握った。
(さあ、次の手を考えましょうか。戦地から持ち帰られる魔物の素材。それを使った新商品の開発……利益の種は、まだまだ尽きないわ)
朝日に照らされる東部の山々を見つめながら、私は誰にも見えないように、モブ令嬢の仮面の下で冷徹な商会主の笑みを深く刻み込んだ。




