シーン4:狼叫の谷の絶望と、幻の野営店(キャンプ・ストア)
進軍開始から七日目の夕刻。
東部辺境の魔物生息域との境界線に位置する『狼叫の谷』。
三日三晩降り続いた無慈悲な春の雨はようやく上がったものの、その代償として、谷底には刺すような氷点下の冷気が底溜まりしていた。
「……動け。前へ進め……」
泥濘の行軍の果てに、ようやく谷底の野営予定地に辿り着いた遠征軍の歩兵たちは、もはや幽鬼のような有様だった。
雨と泥で重さを増した革鎧を引きずる体力すら残っておらず、次々と泥水溜まりの中に倒れ込んでいく。彼らの足の指は凍傷で黒く腫れ上がり、感覚はとうの昔に麻痺している。
「火だ……火を熾せ……薪はないのか……」
「腹が減った……パンの欠片でいい、何か食わせてくれ……」
兵士たちのうわ言のような悲鳴が谷に響く。
しかし、野営地に到着した補給の大型馬車は、出発時の三割にも満たなかった。残りの七割は、泥濘に車輪を取られて途中で放棄されたのだ。しかも、到着した馬車の荷台に乗っているのは、雨漏りで青カビが生えた黒パンと、水を含んで泥塊のようになった小麦粉の袋だけ。
「閣下……! もう限界です! このままでは魔物と戦う前に、寒さと飢えで全軍が凍死します!」
泥まみれの補給将校が、バルザック辺境伯の馬車の前で土下座をして叫んだ。
「ええい、黙れ! 貴様ら、それでも王国の騎士か!」
馬車から降り立ったバルザックが、鞭を振り上げて補給将校を打ち据える。
「薪が濡れているなら、自分の体温で乾かせ! 食料がないなら、木の皮を剥いででも飢えを凌げ! ここは戦場なのだぞ。軟弱な平民のように泣き言をほざく暇があるなら、誇り高き精神で寒さを跳ね除けろ!」
バルザックの怒声が響くが、兵士たちの瞳にはもはや何の光も宿っていない。
限界を超えた肉体に、精神論という空虚な言葉は一ミリも響かないのだ。彼らの心の中にあるのは、飢えへの絶望と、自分たちをこんな地獄へ追い込んだ指揮官への静かなる殺意だけだった。
(……このままでは、暴動が起きるか、あるいは夜を越えられずに半数が死ぬ)
バルザックの側近の騎士たちすらも、絶望的な予測を立てて剣の柄を握りしめた。
その時である。
ふわぁ……。
氷のように冷たい谷底の空気に乗って、信じられない『匂い』が流れてきた。
「……な、なんだ? この匂いは……」
倒れ伏していた一人の兵士が、泥の中から顔を上げる。
それは、肉を香ばしく炙る匂い。
ハーブと塩の効いた、濃厚なスープの煮立つ匂い。
そして、甘く香る焼き立ての麦の匂い。
極限まで飢餓状態にあった兵士たちの胃袋が、その匂いに反応して一斉に悲鳴を上げた。
「匂いだ……美味そうな飯の匂いがする……!」
「幻覚か……? 俺はもう、死ぬのか……?」
兵士たちがフラフラと立ち上がり、匂いのする方角――谷を見下ろす高台の尾根へと視線を向ける。
そして、彼らは信じられない光景を目の当たりにした。
「な、なんだあれは……!?」
バルザックもまた、驚愕に目を見張る。
真っ暗な尾根の上に、突如として無数の魔力灯のオレンジ色の光が一斉に灯ったのだ。
光に照らし出されたのは、鬱蒼とした森を切り開いて作られた、巨大な『天幕群』。
雨を完璧に弾く防水布のテントがずらりと並び、その下には、山のような木箱が整然と積み上げられている。
中央の巨大な魔力コンロでは、巨大な鉄鍋がグツグツと煮立ち、その周囲を、防水マントを着た機敏な動きの男たちが忙しなく立ち働いていた。
それはまさに、荒涼たる辺境の山奥に突如として出現した、巨大な『幻の野営店』だった。
「だ、誰だ貴様ら! なぜこのような場所に軍の許可もなく陣を敷いている!」
バルザックが剣を抜き放ち、高台に向かって怒鳴り声を上げる。
「あら、ご挨拶ね。許可なら、王妃殿下から正規の特許状をいただいているわ」
澄んだ、しかし谷底までよく通る凛とした少女の声が響いた。
天幕の中から、一人の人物が姿を現す。
泥にまみれた兵士たちとは対照的な、一切の汚れのない漆黒のコート。そのフードをゆっくりと下ろしたのは、十六歳の『モブ令嬢』――いや、王都の経済を裏で支配する銀花会議の会長、私だ。
「きゅんっ!」
私の肩の上で、ルンが誇らしげに鳴き声を上げる。
「き、貴様は……アルフェイドの小娘!? なぜ、貴様がここにいる!?」
バルザックが驚愕に顔を歪める。
「決まっているでしょう? 商売をしに来たのよ」
私は高台から、泥に這いつくばる三千の遠征軍を見下ろして、不敵な笑みを浮かべる。
「王妃殿下の御心により、我が銀花会議は東部遠征軍の後方支援を請け負った。……でも、バルザック辺境伯、あなたは『卑しい商人の物資など不要』と仰ったわよね。だから私たちは、あなたの邪魔にならないように、裏道を通って『並走』させてもらったの」
「裏道を通っただと!? 馬鹿な、我々正規軍の大型馬車ですら泥で進めなかったのだぞ! それだけの物資を、どうやって……」
「馬車なんて、初めから使っていないわ」
私が背後を指差すと、そこには東部の屈強な猟師たちと、彼らが連れている無数のラバが待機していた。
「戦場の環境に合わせて輸送手段を変える。それが兵站の基本よ。……さて、どうやらあなたの『伝統的な徴発システム』と『高貴な精神力』は、この冷たい雨の前には何の役にも立たなかったようね」
私の容赦ない挑発に、バルザックは顔を真っ赤にして激怒した。
「小娘がぁっ! 私を愚弄するか! おい、お前たち! あの高台の物資を直ちに押収しろ! 軍の特権をもって、全て『強制徴発』する!」
バルザックが命令を下す。
しかし――。
「…………」
「…………」
彼の周囲の騎士たちも、歩兵たちも、誰一人として剣を抜き、高台へ向かおうとする者はいなかった。
飢えと寒さで限界を迎えている彼らに、高台へ駆け上がる体力など残っていない。いや、それ以前に、彼らの視線は私ではなく、私の背後で煮え立っている『温かいスープの鍋』に完全に釘付けになっていたのだ。
「どうした! 行けと言っているのが分からんのか!」
「……閣下。無理です」
一人の騎士が、悲痛な声で首を横に振る。
「兵士たちはもう、歩くことすらできません。それに……彼らを動かす気力は、我々にもありません」
「な、なんだと……!」
軍の指揮系統が、完全に崩壊した瞬間だった。
精神論という見えない鎖で繋ぎ止めていた組織は、物理的な限界を前にしてあっけなく砕け散ったのだ。
「暴力を振るう元気もないみたいね。……なら、正当な『取引』といきましょうか」
私は漆黒のコートの裾を翻し、急斜面を少しだけ下って、バルザックを見下ろす位置に立つ。
「ここに、三千人の兵士が三日間、完全な状態で戦えるだけの『戦闘糧食』と、魔力草のエキスを練り込んだ特製の『防寒軟膏』、そして広域解毒剤があるわ。どれも、あなたたちが王都で用意したガラクタとは次元が違う、戦場のための最高級品よ」
私が指を鳴らすと、背後の男たちが木箱の蓋を開け、その中身をこれ見よがしにカンテラの光に晒す。
防水紙に包まれた栄養満点の糧食。そして、凍傷を一瞬で和らげる緑色の軟膏の輝き。
兵士たちの喉が、ゴクリと鳴る音が谷底に響き渡った。
「売ってやるわ。ただし……支払いは『定価の十倍』。支払いは軍の予算ではなく、レグナント辺境伯家、あなたの『個人資産』から支払うという誓約書にサインしてもらうわよ」
「じゅ、十倍だと!? 貴様、王国の聖戦に乗じて暴利を貪るつもりか! 悪徳商人め!」
バルザックが血を吐くような声で叫ぶ。
「悪徳? 笑わせないで」
私は一切の容赦なく、氷のような視線で彼を射抜く。
「あなたたちが何の考えもなしに兵士を飢えさせ、死に追いやろうとしたこの地獄に、私たちがどれだけのコストとリスクをかけて完璧な物資を運び込んだと思っているの。……十倍でも安いわ。これは、あなたの愚かさに対する『罰金』よ」
私は羊皮紙の誓約書を取り出し、彼の目の前でヒラヒラと揺らす。
「嫌なら買わなくてもいいわ。私たちはこのまま物資を持って王都へ引き返すだけ。……ただし、明日の朝、この谷底に転がっている三千の凍死体を作った『無能な指揮官』として、王家から処断されるのはあなたよ」
「……っ!!」
バルザックはギリッと奥歯を噛み締め、全身をワナワナと震わせた。
彼の高慢なプライドと、残酷な現実とが、頭の中で激しく衝突しているのが分かる。
しかし。
彼を取り囲む三千の兵士たちの、飢えと絶望に満ちた無言の眼差しが、バルザックの背中に重くのしかかっていた。
彼がここで取引を拒めば、暴動が起き、彼自身が部下の手によって真っ先に殺される。それは火を見るより明らかだった。
「……分かった」
長い、長い沈黙の末。
バルザック辺境伯は、その場に崩れ落ちるように片膝をつき、血の滲むような声で降伏を宣言した。
「……私の負けだ。金は払う。だから……兵たちに、物資を回してやってくれ」
王国の誇り高き辺境伯が、一介の少女商人の前に、完全にプライドをへし折られて頭を垂れた瞬間だった。
「毎度あり。……商談成立ね」
私は冷徹な笑みを浮かべ、高台の男たちに向けて力強く右手を振り下ろした。
「全物資を谷底へ下ろしなさい! まずは温かいスープと糧食を配給! 凍傷の重い者から順番に軟膏を擦り込みなさい! 一人の死者も出すんじゃないわよ!」
「「「おうっ!!」」」
銀花会議の影の補給部隊が、一斉に動き出す。
次々と運び降ろされる完璧な物資。
「美味い……! こんなに温かくて、甘い飯……!」
「足の痛みが引いていくぞ! この軟膏、魔法みたいだ!」
泥にまみれていた兵士たちが、温かいスープを啜り、糧食をかじりながら、涙を流して生き返っていく。
その光景は、もはや地獄から天国への帰還だった。
私は、兵士たちに感謝されながら立ち働く男たちを見下ろし、漆黒のコートのポケットで痛む両手をそっと握りしめる。
(命を金で買わせる。えげつない商売だと、自分でも思うわ。……でも、無能な指揮官の下で無駄死にさせられるより、私が搾り取って生き延びさせる方が、よっぽどマシでしょう?)
戦場の血脈は、武力でも精神論でもない。
圧倒的な物資と、冷徹な計算。そして、人間の欲望と命への執着を知り尽くした『商人』が握っているのだ。
私は、谷底の泥濘に膝をつく辺境伯を一瞥し、次なる戦いの盤面へと、静かに思考を切り替えた。




