シーン3:泥濘の進軍と、山猫たちの影
春の到来を告げる東部山岳地帯の天候は、慈雨などという生易しいものではなかった。
空を分厚く覆う鉛色の雲から、氷のように冷たい雨が三日三晩、絶え間なく降り注いでいた。
「動かせ! 立ち止まるな! 貴様ら、それでも王国の誇り高き兵士か!」
泥の川と化した旧街道に、東部遠征軍総司令官、バルザック・ド・レグナント辺境伯の怒声が響き渡る。
彼は泥除けの魔術が施された豪奢な馬車の中から、窓を開けて怒鳴り散らしていた。その鎧は雨一滴すら弾き返し、ピカピカに磨き上げられているが、足元を歩く歩兵たちの有様は地獄そのものだった。
「ひぃっ、い、石輪が泥に嵌まりました! 抜けません!」
「馬が限界です! これ以上、輜重の大型馬車を引かせれば、脚の骨が折れてしまいます!」
泥まみれになった補給部隊の兵士たちが、大人の背丈ほどもある巨大な車輪に群がり、必死に押し出そうとしているが、動く気配はない。
それどころか、街道のあちこちで馬車が横転し、積み荷の木箱が泥水の中にぶちまけられている。中に入っていたのは、カチカチに硬い黒パンと、湿気を吸って使い物にならなくなった小麦粉の袋だ。
「ええい、不甲斐ない! 気合いが足りんのだ! ……おい、前線の村へ強制徴発に向かわせた部隊は戻ったか!?」
バルザックが補給将校を怒鳴りつける。
将校は顔を真っ青にして、震えながら報告した。
「も、戻りましたが……成果はゼロです。村人たちは我々が到着する前に、わずかな備蓄食料を全て持って山へ逃げ去った後でした。村には、ネズミ一匹残っておりません!」
「なんだと!? 辺境の平民どもめ、王国の聖戦に協力する栄誉を拒むというのか!」
バルザックは窓枠をバンッと叩き、ギリッと奥歯を噛み締める。
「閣下……このままでは、前線基地に到着する前に食料が尽きます。足の指が凍傷で黒く変色し、歩けなくなる兵も続出しております。どうか、一度王都へ伝令を走らせ、物資の追加要請と、進軍の停止を……」
「馬鹿者!!」
将校の悲痛な訴えを、バルザックの怒声がへし折る。
「東部の辺境伯たるこの私が、出発からわずか数日で泣き言を言えるか! そんなことをすれば、あの生意気な小娘の商人や王妃殿下に付け入る隙を与えるだけだ!」
バルザックは忌々しそうに吐き捨てる。
「食料が足りないなら、一日の配給を半分に減らせ! 凍傷の者は気合で歩かせろ! 何が何でも、明後日までに魔物生息域の手前、『狼叫の谷』まで進軍するのだ! ……我ら誇り高き騎士の精神力を見せつけてやれ!」
絶対的な権力者の非情な命令が下る。
補給将校は絶望に顔を歪めながらも、敬礼して泥の中へと戻っていくしかなかった。
冷たい雨が、飢えと寒さに震える三千の兵士たちの体温を、容赦なく奪い続けていた。
***
一方、その泥濘の地獄から尾根を一つ隔てた、険しい獣道の奥。
鬱蒼と茂る森の中にカモフラージュされた、天然の巨大な洞窟。
「はぁーっ……。やっぱり、雨の日の山で飲む温かいコーヒーは最高ね」
私は防水加工が施された厚手の革製マントのフードを下ろし、手にしたマグカップから立ち昇る湯気を深く吸い込んだ。
洞窟の奥では、煙の出ない上質な魔力炭が赤々と燃え、冷え切った空気をポカポカと温めている。
「きゅるるぅ〜」
ルンが、火のそばに置かれた毛布の上で、お腹を出して幸せそうに寝転がっている。
「会長。学園を『重度の流行り風邪』で長期欠席してまで、自らこんな辺境の山奥に足を運ばれるとは。……お父様が知ったら、気絶するのでは?」
私の斜め向かいで、携帯用の小型計算盤を弾いていたベルノが、苦笑混じりに呆れた声を出す。
「お父様には『王妃殿下の極秘任務で、王城の離宮に軟禁されている』と口裏を合わせてあるから大丈夫よ。それに、戦場の血脈を支配する初めての大仕事だもの。現場の空気を吸わずに、安全な王都のベッドで寝ていられるわけがないでしょう?」
私はマグカップを置き、洞窟の壁際に積み上げられた無数の木箱を見渡す。
ここ数週間、銀花会議の暗部と、地元東部の『山猫』と呼ばれる密輸業者や猟師たちを大金で雇い上げ、密かに構築し続けてきた『影の兵站線』の第一中継拠点だ。
彼らは重い馬車を使わず、足腰の強いラバと、人間の背負子だけで、獣道をリレー形式で進む。泥濘に車輪を取られることもなく、正規軍の数倍の速度で完璧な物資を運び上げている。
「さて。……向こうの様子はどうかしら」
私が問うと、洞窟の入り口の影から、迷彩服を着た暗部の男が姿を現し、膝をつく。
「報告いたします。バルザック辺境伯の遠征軍は、旧街道の泥に足を取られ、進軍速度は予定の半分以下。食料の強制徴発にも失敗し、現在、兵士の配給は一日に乾いた黒パン半欠片のみ。凍傷と疲労による脱落者が、すでに二百名を超えました」
「……馬鹿ね」
私は冷酷に言い捨てる。
「馬車は平地の晴れた日に使うものよ。春の雨の山道に、あんな重い鉄輪の馬車を持ち込むなんて、自ら『私は素人です』と言いふらしているようなものだわ。村人たちが食料を持って逃げたのも当然よ。私が事前に、東部の全村長に『軍に食料を渡さず隠せば、後で銀花会議が全て定価の倍で買い取る』って通達を出しておいたんだから」
「えげつないですね、会長……」
ベルノが眼鏡の奥でドン引きしているが、私は気にも留めない。
「戦場において、精神論は空腹を一日しか誤魔化せない。……彼らが限界を迎えるのは、いつ?」
「おそらく明後日。魔物生息域の手前である『狼叫の谷』に到着した時点で、彼らの食料は完全に底をつき、一歩も動けなくなる計算です」
暗部の報告に、私は満足げに頷く。
「完璧なタイミングね。……ベルノ、全中継拠点の運び屋たちに伝達。私たちも明後日の夜までに、狼叫の谷を見下ろす高台へ移動するわよ。全ての物資を前線に上げなさい」
「承知いたしました。……いよいよ、店開きですね」
「ええ。腹が減っては戦はできない、なんて陳腐な言葉があるけれど。……極限まで腹を空かせた猛獣に、飛び切りの餌を目の前でチラつかせたらどうなるか。たっぷり見せてもらいましょう」
私は立ち上がり、革のブーツの踵を土の地面に強く鳴らす。
「バルザック辺境伯の時代遅れのプライド、金貨の重さで完全にへし折ってやるわ」
洞窟の外では、相変わらず冷たい雨が降り続いている。
しかし、私の心の中には、商人としての熱い闘争の炎が、轟々と燃え盛っていた。




