シーン1:戦争という名の大量消費と、素人の兵站(ロジスティクス)
王妃イザベラとの「取引」から数ヶ月。
季節は巡り、王都アークレインには東の山脈から吹き下ろす冷たい秋風が舞い始めていた。
「……ベルノ。この東部遠征軍の『基本軍備要求書』、作成した軍務省の役人は、算術の基礎からやり直した方がいいわね」
王都の地下深く、偽装された『円卓の間』。
私は黒檀のテーブルに広げられた分厚い羊皮紙の束をペラペラとめくりながら、深い溜息を吐き出した。
「おっしゃる通りです、会長。私も目を通した際、我が目を疑いました」
ベルノが銀縁眼鏡を押し上げながら、呆れたような声で同意する。
来たる春に予定されている、王国軍による大規模な東部辺境の魔物討伐遠征。王妃殿下との密約により、我が『銀花会議』はその遠征にかかる全物資の調達と輸送――すなわち兵站の裏側を全面的にバックアップすることになっていた。
しかし、今日軍務省から回ってきた公式な物資要求書は、あまりにもお粗末なものだった。
「歩兵三千人に対し、一日の消費カロリー計算が完全に平時のままよ。重い鎧を着て山岳地帯を行軍する人間の消費量を舐めているわ。この食料計画だと、遠征開始から二週間で全軍が餓死する計算になるわね」
私は赤インクのガラスペンを手に取り、羊皮紙の数字に容赦なくバツ印をつけていく。
「それに、この『予備武器』の項目。長剣の替え刃の数は指定されているけれど、それを研ぐための砥石や、鎧の手入れに使う防錆油の予算がすっぽりと抜け落ちている。……戦場で剣が錆びたら、素手で魔物を殴り倒すつもりかしら?」
「おそらく、前回の小規模な討伐戦のデータを、ただ人数分掛け算して作成しただけの代物かと推測されます。現場を知らない文官特有の机上の空論ですね」
ベルノの辛辣な評価に、私は小さく頷く。
(戦争とは、血と命を対価にした極限の『消費活動』よ。弾薬一つ、麦の一粒、包帯の一巻きが届かないだけで、前線の部隊は一瞬で崩壊する。……それを、こんな杜撰な計画で進めようとしているなんて)
「きゅぅ……」
私の肩の上にいたルンが、私の苛立ちを察知して、心配そうに頬にすり寄ってくる。
私は指先でルンの背中を撫でて落ち着かせながら、ふと一つの疑問を口にした。
「でも、おかしいわね。軍務省の文官が阿呆なのは今に始まったことじゃないけれど、現場の指揮官がこの計画書に判を押すはずがないわ。今回の遠征軍の総司令官は誰なの?」
私の問いに、ベルノは手元の資料を一枚めくり、重苦しい声で答えた。
「それが……問題の種なのです、会長。昨日、王宮での軍議にて、東部遠征軍の総司令官が正式に任命されました。……バルザック・ド・レグナント辺境伯です」
「バルザック……。東部の要衝を治める、あの保守派の筆頭貴族ね。たしか、ガチガチの『血統至上主義』で、平民や商人を虫けらのように見下していると噂の……」
私はペンを止め、目を細める。
「はい。そして彼は、軍議の場でこう宣言したそうです。『王家の威信を懸けた聖戦に、卑しい商人どもの手垢のついた物資など不要。我がレグナント家の伝統的な徴発システムと、高貴な騎士たちの精神力をもってすれば、兵站など容易い』と」
「……は?」
私は思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
精神力で兵站がどうにかなる? 腹が減っても、気合で魔物と戦えるとでも本気で思っているのだろうか。
「バルザック辺境伯は、王妃殿下が裏で我々『銀花会議』に調達を任せようとしていることを嗅ぎつけ、猛反発しているようです。彼は軍務省の権限を強引に奪い取り、自らの息のかかった東部の御用商人と、現地の農村からの『強制徴発』だけで遠征を乗り切るつもりです」
「強制徴発……つまり、現地の平民から食料を無償で奪い取って、軍の胃袋を満たすつもりね。そんなことをすれば、東部の経済が完全に焼け野原になるわ」
私はテーブルの上にペンを放り投げ、漆黒のコートの背もたれに深く寄りかかった。
財務卿ヴァルターを失った保守派の貴族たちが、今度は軍部を利用して、王妃と私たちが築こうとしている新しい経済圏に横槍を入れてきたというわけだ。
(血統と精神論を振りかざす、時代遅れの猛将。……前世の歴史でも、そういう頭の固い指揮官が一番味方を殺してきたのよね)
「会長。このままでは、我々が用意した莫大な兵糧とポーションが宙に浮きます。どうなさいますか? 王妃殿下に泣きつき、勅命で辺境伯を黙らせますか?」
ベルノの問いに、私は冷ややかに口角を吊り上げた。
「いいえ。王妃殿下は、私たちが自力でこの障害をどう乗り越えるか、お手並み拝見と決め込んでいるはずよ。ここで殿下のスカートの裾に隠れれば、商人としての価値を疑われるわ」
私は立ち上がり、円卓の中央に広げられた王国全土の地図――特に、赤い印が密集している東部辺境の山岳地帯を睨み下ろす。
「バルザック辺境伯には、一度痛い目を見てもらうしかないわね。彼が『伝統』と『精神論』で軍を動かした結果、いかに兵站が地獄と化すか。それを特等席で見物させてもらいましょう」
「では、我々は静観を……?」
「静観はしないわ。彼らが飢えて泣き叫んだその瞬間に、法外な値段で完璧な物資を売りつけて恩を売るのよ。そのための準備を始めるわよ、ベルノ」
私の瞳の奥に、再び冷酷で計算高い商会主の炎が灯る。
国家の戦争すらも、私にとっては巨大なビジネスチャンスに過ぎない。精神論しか語れない旧時代の貴族に、圧倒的な『物質と資本の暴力』を叩き込むための、新たな戦いの幕が上がった。




