シーン13:王宮の門番と、白百合の絶対権限
夕闇が完全に王都を包み込み、王城『アークレイン宮殿』の巨大な白亜の城壁が、無数の魔力灯によって黄金色にライトアップされ始める。
私が学園の紺色のブレザー姿のまま、一人で王城の正門へと続く大階段を上っていくと、周囲を歩く貴族たちや王宮の使用人たちが、奇異の目で私を振り返った。
(当然よね。こんな時間に、しかも学園の制服を着ただけの小娘が、供回りもなしに王宮へ近づいてくるなんて、正気の沙汰じゃないもの)
私は周囲の視線を完全に無視し、痛む手をコートのポケットに入れたまま、真っ直ぐに正門へと進む。
「止まれ! 何者だ!」
正門を警備していた二人の屈強な近衛兵が、長いハルバードを交差させて私の行く手を阻む。彼らの纏う銀色の鎧は、父・ガイウスがかつて身につけていたものと同じ、王家直属の精鋭の証だ。
「ここは王宮である。学生が遊び半分で近づく場所ではない。早々に立ち去れ!」
近衛兵の一人が、威圧的な声で私を追い払おうとする。彼らの目には、私がただの道に迷った平民の娘か、あるいは王族を一目見ようと無謀にも忍び込もうとしている愚か者にしか見えていないだろう。
「遊びではありません。王妃殿下へ、急ぎの謁見をお願いに参りました」
私が静かに、しかしハッキリとした声で告げると、近衛兵たちは一瞬顔を見合わせ、直後に鼻で笑った。
「王妃殿下に謁見だと? 莫迦なことを言うな。上位の公爵ですら、三ヶ月前から申請を出さなければお会いできないのだぞ。お前のような身分を弁えぬ娘が……」
「身分は、アルフェイド騎士爵家長女、リリア・アルフェイドです」
私は彼らの言葉を遮り、名乗りを上げる。
「アルフェイド……? ああ、あの一代限りの。なおさら話にならん。帰れ、帰らないなら不敬罪で牢に放り込むぞ!」
近衛兵がハルバードの柄で私を小突こうと一歩踏み出した。
その瞬間。
私はコートのポケットから、父から託されたあの『黒檀の木箱』を取り出し、カチリと留め金を外して、中身を近衛兵の目の前へと突きつけた。
「……っ!?」
黄金の魔力灯の光を反射して、純銀の印章が冷たく、そして絶対的な威厳を持って輝く。
持ち手に精緻に彫り込まれた、双頭の鷲と白百合の紋章。
近衛兵たちの動きが、まるで時間を止められたかのように完全に硬直する。
彼らの視線は銀の印章に釘付けになり、やがてその顔から血の気がサーッと引いていくのが、夜の闇の中でもはっきりと分かった。
「そ、それは……! まさか、王家直属の……『緊急通行証』……!?」
「本物か!? なぜ、騎士爵の娘がそんなものを……!」
「私の父、ガイウス・アルフェイドが、近衛騎士を退役する折に王妃殿下より直々に賜ったものです」
私は木箱を掲げたまま、一歩前へ踏み出す。
私の声は、もはや怯えた少女のものではない。王都の経済を支配する、銀花会議の会長としての冷徹な覇気を完全に解放していた。
「この印章の効力は、近衛兵であるあなたたちが一番よくご存知のはずよ。……王宮のいかなる門も、いかなる兵も、この印章を持つ者の歩みを止めることは許されない。事前の審査も、身分の確認も一切不要。王妃殿下の御前へと直通する、絶対の権利。……違って?」
「…………っ!!」
二人の近衛兵は、ハルバードを弾かれたように引き戻し、私の前で勢いよく片膝をつき、深く頭を垂れた。
金属の鎧が地面に擦れる、重々しい音が響く。
「し、失礼いたしましたっ!! どうぞ、お通りくださいませ!!」
(お父様……あなたの遺してくれたこの盾、本当に絶大な威力ね)
私は心の中で父に感謝しながら、木箱をしまい、道を開けられた正門を堂々と通り抜ける。
門の先は、別世界だった。
見上げるほど高い天井、大理石が敷き詰められた廊下、壁を飾る豪奢なタペストリーと、等間隔に配置された見事な甲冑。
私はその煌びやかな廊下を、ヒールの音を高く響かせながら、迷うことなく王妃の私室があるという奥の宮へと向かって歩き続ける。
「な、何だあの娘は……」
「なぜ学生が、近衛兵に制止されずに歩いているのだ……?」
すれ違う高位の貴族たちや文官たちが、ギョッとした顔で私を見るが、私が手に持つ木箱の隙間から銀の印章の輝きを見つけると、皆一様に顔色を変えて壁際へ飛び退き、道を譲る。
まるで、モーセの十戒のように、私の歩く先だけが綺麗に割れていく。
私は一切の足止めを食らうことなく、王妃の私室へと続く、白亜の大扉の前に辿り着いた。
扉の前には、一際豪華な鎧を着た近衛隊長と、王妃の筆頭侍女らしき初老の女性が立っていた。
彼らは私の姿を見ると、信じられないものを見るように目を丸くした。
「お待ちください! ここは王妃殿下の私室です。いかなる者も……」
筆頭侍女が鋭い声で私を制止しようとするが、私は歩みを止めず、再び木箱を開いて印章を突きつける。
「アルフェイド騎士爵家長女、リリア・アルフェイド。王妃殿下より賜った『緊急通行証』を行使いたします。……今すぐ、扉を開けなさい」
「緊急通行証……!?」
近衛隊長が印章を確認し、ゴクリと唾を飲み込む。
しかし、筆頭侍女は顔をしかめ、立ちはだかったままだ。
「印章が本物であることは認めます。しかし、殿下は現在、体調が優れずお休みになられております。いくら通行証があるとはいえ、今夜はお引き取りを……」
「お引き取りはしません」
私は筆頭侍女の言葉を冷酷に切り捨てる。
「今この瞬間も、財務院の監査隊が我がアルフェイド家を包囲し、無実の父を討ち取ろうとしています。一分一秒の遅れが、忠義の騎士の命を奪うことになります。……体調が優れないのであれば、ベッドに寝たままでも構いません。私が直接お話しいたします。開・け・な・さ・い」
私の放つ圧倒的な威圧感と、一切の妥協を許さない瞳の光に、筆頭侍女は気圧されたように一歩後ずさる。
「……通してあげなさい、マーガレット」
不意に。
大扉の向こう側から、鈴の転がるような、しかしどこまでも深く、威厳に満ちた女性の声が響いた。
「王妃殿下……!」
筆頭侍女がハッとして扉を振り返る。
「その声、そしてその強情さ。……かつて私の命を救ってくれた、あの不器用な近衛騎士の面影を強く感じます。……入りなさい、リリア・アルフェイド」
「ははっ!」
近衛隊長が素早く動き、重厚な白亜の大扉が、音もなく左右に開かれる。
私は小さく息を吸い込み、学園のブレザーの皺を伸ばす。
そして、王国の国母たる絶対権力者が待つ、豪奢な私室へと一歩を踏み出した。
部屋の中は、無数の蝋燭の光に照らされ、甘い香の匂いが立ち込めていた。
天蓋付きの巨大なベッドの傍ら、豪奢なソファに腰掛けていたのは、プラチナブロンドの髪を美しく結い上げた、年齢を感じさせない美しさと圧倒的な気品を纏う女性。
アークレイン王国の王妃、イザベラ殿下。
彼女は、入ってきた私――学園の制服姿で、泥と薬草の汁に塗れた包帯を巻いた手をコートのポケットに突っ込んでいる異質な少女――を見て、微かに目を細めた。
「……あなたが、ガイウスの娘ですか」
「はい、王妃殿下。お初にお目にかかります。リリア・アルフェイドと申します」
私は王妃の前に進み出ると、貴族令嬢としての完璧なカーテシー(淑女の礼)ではなく、父から教わった騎士としての最敬礼――右手を左胸に当て、深く腰を折る礼を捧げた。
「あの通行証を使うということは、王国を揺るがすほどの危機か、あるいはアルフェイド家の存亡に関わる事態ということですね。……話しなさい。何があったのですか」
王妃の静かで、全てを見透かすような眼差しが、私を真っ直ぐに射抜く。
私は顔を上げ、王妃の目をしっかりと見つめ返した。
「王妃殿下。……王都の経済は今、財務卿ヴァルター・グレイスの暴走によって、死の淵に立たされております。私は彼を止めるために、殿下の『勅命』をいただきに参りました」
私は、モブ令嬢としての仮面を完全に捨て去り、王都の経済を握る『裏の女王』として、国家の最高権力との交渉を始めるための、最初の言葉を静かに放った。




