シーン10:温室の密会と、焦燥する財務卿
「……アルフェイドさん。ねえ、アルフェイドさんってば」
肩を軽く揺すられ、私はハッと意識を浮上させる。
重い瞼をこじ開けると、窓から差し込む昼下がりの陽光が目に突き刺さった。どうやら、午前の授業が全て終わるまで、私は机に突っ伏したまま完全に泥のように眠りこけていたらしい。
「あ……ごめんなさい。私、寝ていたかしら」
「ええ、ずっと。先生も呆れて注意すらしていなかったわよ」
声をかけてきたのは、隣の席に座る下級男爵令嬢だった。彼女は特に私に悪意を持っているわけではないが、かといって親しいわけでもない。ただの『隣の席のモブ同士』という関係だ。
「お昼休みだから、食堂に行くなら早く行った方がいいわよ。すぐに席が埋まっちゃうから」
「教えてくれてありがとう。でも、今日は少しお腹の調子が悪いから、外の空気でも吸ってくるわ」
私は作り笑いを浮かべて立ち上がる。
机に手をついた瞬間、手袋の下の水ぶくれが圧迫されてズキリと痛んだが、顔には一切出さずに鞄を抱えて教室を出た。
大食堂へと向かう華やかな生徒たちの波に逆らい、私は学園の裏手にある、普段は誰も寄り付かない『旧温室』へと足を向ける。
かつては珍しい魔力植物が栽培されていたらしいが、今は管理が行き届かず、雑草と野生の薔薇が絡み合うように生い茂る廃墟寸前のガラス室だ。モブ令嬢が一人で息を潜めるには、これ以上ないほど最適な場所である。
ギィ……と錆びた立て付けの悪い扉を開け、温室の中へ入る。
むせ返るような緑の匂いと、淀んだ湿気が体を包み込む。昨夜のポーション抽出所の熱気に比べれば、どうということはない。
私は周囲に誰もいないことを確認し、奥のベンチへと腰を下ろす。
「……いるんでしょう? 報告を」
私が虚空に向かって静かに呟くと、ベンチの背後、密集したツタの影から、スルリと音もなく一人の人影が滲み出てきた。
学園の庭師の作業着に身を包んだ、目立たない風貌の若い男。銀花会議の情報部隊に所属する『暗部』の一人だ。
「はっ。会長のご指示通り、本日の午前の段階で、王都の末端における『緊急供給計画』の第一フェーズは完全に完了いたしました」
庭師の男は膝をつき、周囲を警戒しながら早口で報告を始める。
「王立療養院と北方騎士団への医療品納入は、手押し車への偽装ルートを用いて遅滞なく完了。平民街のパン屋への小麦粉の供給も行き渡り、早朝に発生しかけた暴動は完全に鎮圧されております。……王都の市場機能は、現在『正常』を保っています」
「そう。ご苦労様。……それで? 財務院の監査隊と、ヴァルター卿の様子はどう?」
私が問うと、暗部の男は微かに口角を上げ、隠しきれない嘲笑を滲ませた。
「完全に混乱に陥っております。彼らは朝の段階で、物資の供給が止まった平民たちが暴動を起こし、我々五大商会が責任を問われて民衆から糾弾されるというシナリオを描いていました。しかし、いくら待っても暴動は起きず、市場は平穏そのもの。中央倉庫を完全に封鎖しているにも関わらず、なぜ物資が回っているのか、彼らは全く理解できていません」
「当然よ。彼らの見ている『地図』には、大通りと大きな倉庫しか載っていないのだから」
私は痛む手を膝の上でそっと組み直し、冷ややかに笑う。
「しかし、事態は彼らの思惑とは全く別の方向で炎上し始めています。……美容部門の出荷を全面停止した影響が、王宮と上位貴族の間で爆発しました」
「あはは、やっぱりね」
「はい。今週末に控えている王家の主催する『建国記念の夜会』に向けて、貴族の夫人や令嬢たちがこぞって注文していた香水や美容液が、一斉にキャンセルされたのです。各店舗が『財務院の監査による物流停止のため』と正直に(意図的に)理由を説明したため、怒りの矛先は全てヴァルター財務卿へ向かっています」
暗部の男の報告に、私は満足げに頷く。
(自分の娘であるセレスティアは「小さな犠牲」なんて言っていたけれど、他の貴族たちにとって、自分の見栄と体裁は命の次に重いものよ。それが財務卿の独断のせいで潰されたとなれば、黙っているはずがないわ)
「現在、財務院のヴァルター卿の執務室には、同派閥の貴族たちからも抗議の使者が殺到しており、彼は身内からの激しい突き上げを食らっている状態です」
「見事な自業自得ね。……でも、あの冷酷な財務卿が、これで大人しく引き下がるとは思えないわ。彼が次に打ってくる手は?」
私の問いに、暗部の男は表情を引き締め、声のトーンを落とした。
「ご推察の通りです。焦ったヴァルター卿は、事態を力技で収拾するため、強硬手段に出る模様です。明日の正午、五大商会の代表五名を、財務院の特別査問室へ『強制出頭』させる命令書が発行されました」
「査問室への強制出頭……。なるほど、倉庫の兵糧攻めが効かないと見るや、今度はトップを直接呼びつけて、脅迫と尋問で不正の証拠を捏造するつもりね」
私はベンチから立ち上がり、手袋に包まれた指先で、温室のガラスについた水滴をスッと拭き取る。
「よろしいのですか、会長。財務院の査問室は、一度入れば無罪の者でも有罪の証拠をでっち上げられ、二度と出てこれないと言われる場所です。代表たちを向かわせるのは危険すぎます」
「危険なのは、手ぶらで行った場合よ」
私は振り返り、暗部の男に明確な指示を下す。
「ベルノに伝えなさい。明日の査問会には、代表たちを出席させる。……ただし、彼らには私が昨日用意させた『孤児院への無償提供の契約書』と『王立療養院との正規納入記録』を持たせなさい」
「あの、利益を度外視した慈善事業の契約書ですね」
「ええ。ヴァルター卿が『不当な利益の独占』を理由に代表たちを責め立てた瞬間、その契約書を叩きつけてやるのよ。王都の平民と命を救うための正規の契約を、財務院が不当な暴力で妨害したという事実を、査問会の公的な記録として刻み込んでやるわ」
私は言葉を切り、さらに決定的な一手を打つ。
「それだけじゃない。暗部の総力を挙げて、明日の正午までに王都中の平民や孤児院の神父、療養院の医師たちに噂を流しなさい。……『財務院が、自分たちの利益のために孤児や患者の薬を不当に差し押さえている。五大商会はそれに命懸けで抗議に向かう』とね」
暗部の男が、息を呑む。
「……査問室の外を、民衆の世論で包囲するということですね」
「その通りよ。相手が国家権力という暴力を使うなら、私たちは『民衆の支持』という、国家すらも覆しかねない最大の暴力で対抗する。……明日の正午、ヴァルター卿は自分がどれほど恐ろしい虎の尾を踏んだのかを、その身をもって知ることになるわ」
「承知いたしました。直ちに手配いたします!」
暗部の男は深く頭を下げ、再びツタの影へと音もなく溶け込んでいった。
誰もいなくなった旧温室で、私は一人、静かに息を吐き出す。
痛む手でコートのポケットの上から、父から託された『王妃の緊急通行証』の硬い感触を確かめる。
(まだよ。これはまだ使わない。ヴァルターが完全に逃げ道を失い、最後の暴挙に出た時……私が自らの足で王宮に乗り込み、彼の首を物理的にも社会的にも刎ねるための、最後の一撃に取っておくわ)
私は再びモブ令嬢の無害な顔を作り直し、午後の授業に向かうため、旧温室を後にした。
王都の経済を巡る静かなる戦争は、明日の正午、いよいよ表舞台での直接対決へと雪崩れ込もうとしていた。




