シーン9:王都の朝と偽装ルート、そして財務卿の娘
東の空が完全に白み、王都アークレインに朝の光が差し込む頃。
私は自室の鏡の前に立ち、学園指定の紺色のブレザーのボタンを、震える指先で不器用に留めていた。
「お嬢様、やはり今日はお休みになられた方が……そのお怪我では、ペンを握ることもできませんよ」
背後で私の髪を三つ編みに結い上げながら、メイドのマーサが涙声で訴えかけてくる。
私の両手は、昨夜の泥臭い抽出作業と、煮えたぎる熱湯を絞り出した代償として、痛々しい水ぶくれと擦り傷だらけになっていた。マーサが丁寧に冷却軟膏を塗り、薄い包帯を巻いてくれたが、それでも動かすたびにズキズキとした鈍痛が走る。
「駄目よ、マーサ。私が学園を休めば、アルフェイド家に何か異変があったと周囲に悟られるかもしれない。今は、少しの疑念も持たせてはいけない時期なの」
私は包帯を巻いた両手の上に、さらに学園指定の純白の手袋をはめ、火傷の痕を完全に隠し通す。少しきついが、これなら誰の目にも触れることはない。
徹夜の疲労で顔色は最悪だったが、目元に薄く化粧を施し、いつもの『地味で目立たないモブ令嬢』の仮面を完璧に顔に貼り付ける。
「きゅぅ……」
ベッドの上で丸くなっていたルンが、眠い目をこすりながら鞄の中へと自分から潜り込んでいく。彼も昨夜の緊張と熱気で、相当お疲れのようだ。
「ありがとう、マーサ。行ってくるわ」
私は鞄を手に取り、トマが待つ馬車へと乗り込む。
王都の石畳を、学園へ向けて馬車が走り出す。
私は窓のカーテンを少しだけ開け、朝の王都の光景を静かに観察する。
財務卿ヴァルターが仕掛けた『中央倉庫の封鎖』。その事実が、徐々に王都の平民たちにも伝わり始めているのだろう。大通りには、いつになく殺気立った空気が漂っている。
交差点や主要な大通りには、黒い軍服に銀の天秤の紋章を掲げた財務院の監査隊が立ち並び、通り過ぎる大型の荷馬車を片っ端から停めては、厳しい検問を行っている。
(狙い通り。彼らの目は『巨大な流通』にしか向いていない)
私は窓枠に肘をつき、冷ややかな笑みを浮かべる。
監査隊が大型の荷馬車を威圧的に取り調べているすぐ横を、一人の花売りの少女が、鼻歌を歌いながら通り過ぎていく。彼女の背負う大きな花籠の下には、貴族の屋敷へ届けるための『真珠肌石鹸』がぎっしりと敷き詰められているはずだ。
別の路地からは、大量のシーツを抱えた洗濯屋のおかみさんが歩いてくる。彼女のシーツの束の芯には、高価な美容液の小瓶が何十本も包み込まれている。
手押し車や、籠、そして歩きの人間。
王都の毛細血管を這うように、私が昨夜指示した『裏の物流網』が、見事に機能している光景だ。
監査隊の役人たちは、そんな足元を通り過ぎる小さな商人たちに目もくれない。彼らは、まさか五大商会がプライドを捨てて、花売りや洗濯屋を運び屋に使っているなどとは夢にも思っていないのだ。
そして、馬車が南区の平民街を通り過ぎようとした時。
一軒のパン屋の前に、凄まじい人だかりができているのが見えた。
「中央倉庫が役人に差し押さえられたらしいぞ! 明日には小麦粉の値段が十倍になるって噂だ!」
「買いだめしなきゃ! 家族が飢えちまう!」
パニックに陥り、暴動寸前で押し寄せる平民たち。
だが、その店の奥から、粉まみれになった恰幅の良い店主が大声を上げて飛び出してきた。
「並べ! 押すな! 小麦粉なら腐るほどある! ガルド商会の旦那が、昨夜のうちに倉庫の奥から大量の粉を無償で回してくれたんだ! パンの値段は一分も上げねえ! 欲しい奴には全員に売ってやるから、安心して並びやがれ!!」
店主の背後には、天井まで届きそうなほどのパンの山と、小麦粉の袋が積まれている。
それを見た瞬間、暴徒と化しかけていた平民たちの顔から、スッと絶望と恐怖の色が抜け落ち、深い安堵の溜息へと変わる光景を、私ははっきりと見た。
(よし。食料パニックは抑え込んだ。ガストンも、たまには良い仕事をするじゃない)
私はカーテンを閉じ、背もたれに深く寄りかかる。
ポーションは無事に王立療養院に届いたはずだ。食料も回っている。
私たちが流した血は、王都の心臓を止めさせはしなかった。
やがて、馬車は王立アークレイン学園の豪奢な正門をくぐる。
私は手袋のシワを伸ばし、完璧な無表情を作って教室へと向かう。
教室の扉を開けると、そこはいつも通りの華やかで騒がしい、貴族令嬢たちの社交場だった。
私は誰とも目を合わせず、一番後ろの窓際の席へと向かい、鞄を置いて息を潜める。
ズキズキと痛む両手を机の下に隠し、徹夜の疲労で重く垂れ下がりそうになるまぶたを必死に持ち上げる。
「皆様、お聞きになりまして!?」
不意に、教室の前方から、一際甲高く、誇り高い声が響き渡る。
声の主は、見事な金髪の縦ロールを揺らし、取り巻きの令嬢たちを従えたセレスティア・グレイス侯爵令嬢。
王都を混乱の渦に突き落とした張本人、財務卿ヴァルター・グレイスの愛娘だ。
「昨夜、私のお父様が、王都の流通を牛耳り、不当に利益を貪っていた悪徳商会どもを一網打尽になさいましたのよ!」
セレスティアは扇をパチンと広げ、自慢げに胸を反らす。
「まあ! さすがは財務卿閣下ですわね!」
「あの汚らしい平民の商人どもが、不当に価格を吊り上げているという噂は本当でしたのね。これで王都の物価も適正になり、平民たちもさぞかしお父様に感謝していることでしょう!」
「我がグレイス家の名声は、これでますます高まりますわ!」
取り巻きたちが、セレスティアを褒めそやす。
セレスティアは高笑いを上げながら、教室の中央で我が世の春を謳歌している。
私は机の下で、痛む両手をギュッと握りしめる。
(適正になる? 平民たちが感謝している?……笑わせないで)
私の瞳の奥で、冷たい怒りの炎がチロチロと燃え上がる。
あなたのお父様が、数字と法律だけを見て物理的に倉庫を封鎖したせいで、今朝、どれだけの命が危機に晒されたか。
私が徹夜で、文字通り血と汗を流してポーションを絞り出さなければ、療養院では今頃、死を悼む泣き声が響いていたはずだ。平民街ではパンを奪い合う暴動が起きていたはずだ。
現場で泥水すらすすることのない人間が、安全な王宮の執務室から書類にサインをしただけで『正義』を語る。
その傲慢さが、私にはどうしようもなく腹立たしかった。
「そういえば、セレスティア様」
取り巻きの一人が、ふと思い出したように声を上げる。
「私、今朝、お抱えの化粧品店に使いをやったのですが、『本日は休業です』と追い返されてしまったのです。どうやら、例の商会連合の一斉摘発の煽りを受けて、流通が一時的に止まっているらしくて……」
その言葉に、他の令嬢たちも「実は私も」「香水が届かなかったわ」とざわめき始める。
セレスティアは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに扇で口元を隠し、余裕の笑みを作る。
「……一時的な混乱は、大いなる正義のための小さな犠牲ですわ。お父様が新しい流通網を整備されれば、すぐに質の良い品が、これまでよりも安く手に入るようになります。貴族たるもの、その程度の不便は甘んじて受け入れるべきですわ」
(小さな犠牲、ね)
私は机に突っ伏し、腕の中で冷ややかに笑う。
あなたたちが今我慢しているその『不便』は、私が意図的に作り出したものよ。
あなたたちのような上位貴族の我慢の裏側で、手押し車と小舟に乗せられた命の物資が、平民や騎士たちの元へ運ばれている。
「……ふぁ……」
怒りよりも、強烈な睡魔が襲ってくる。
私は痛む手を庇うようにして、教科書の後ろで完全に気配を消す。
(今は、好きに言わせておけばいい。……あなたのお父様の監査が空振りに終わり、王都の経済が私なしでは一日たりとも回らないという事実を突きつけられるまで、あと少しの辛抱よ)
財務卿ヴァルター。
彼が自分の足元に張り巡らされた、見えない毛細血管の存在に気づくのはいつか。
そして、彼が焦って次の一手を打ってきた時こそが、私が彼を社会的に完全に殺すための、本当のゲームの始まりだ。
私は教室の喧騒を遠くに聞きながら、冷たい机の上で、束の間の泥のような眠りへと落ちていった。




