シーン11:財務院の査問室と、民衆という名の包囲網
翌日の正午。
王都の中心部にそびえ立つ、堅牢な白亜の建造物――財務院本庁舎。
その地下深くにある『特別査問室』は、窓一つない石造りの空間であり、冷たい空気とカビの匂いが漂う、さながら牢獄のような場所だった。
部屋の中央には分厚い鉄の机が置かれ、その奥に一段高く設けられた特等席には、財務卿ヴァルター・グレイス侯爵が、氷のように冷酷な眼差しで座っていた。
プラチナブロンドの髪を隙なく撫でつけ、黒を基調とした豪奢な軍服風のフロックコートに身を包んだ男。その細く整った顔立ちは、娘であるセレスティアによく似ているが、瞳の奥に宿る計算高さと冷酷さは、娘の比ではない。
鉄の机を挟んだ反対側には、背もたれのない粗末な木の椅子が五つ並べられ、そこに五大商会の代表たちが座らされていた。
「……さて。無駄な時間は省こうか、強欲な商人ども」
ヴァルターが、薄い唇を三日月のように吊り上げて口を開く。
その低く冷たい声が、石の壁に反響して代表たちの鼓膜を打つ。彼の横には、昨夜中央倉庫を封鎖した特務監査局長、バウマンが控えている。
ヴァルターは机の上に、あらかじめ用意されていた数枚の羊皮紙を滑らせた。
「これは、君たちが裏で結託し、意図的な品薄状態を作り出して物価を不当に釣り上げたという『自白書』だ。これにサインをし、商会の全財産を国庫へ返納するなら、極刑だけは免じてやろう。……君たちの命と引き換えの、安い取引だと思うがね」
自白の強要。
かつてであれば、この財務卿の圧倒的な圧力と権力を前にして、代表たちは泣き叫び、許しを乞うてサインしていただろう。彼らは根が小心者であり、国家の刃に逆らう度胸など持ち合わせていなかったからだ。
しかし、今日の彼らは違った。
「……お断りいたします、財務卿閣下」
口火を切ったのは、薬品部門を統括するバルトだった。
彼は震える膝を必死に手で押さえつけながらも、顔をしっかりと上げ、王国の最高権力者の一人を真っ直ぐに見据えたのだ。
「なんだと?」
ヴァルターの細い眉が、ピクリと不快げに動く。
「我々は、不当な価格操作など一切行っておりません。したがって、その自白書にサインをする理由はどこにもありません」
バルトの言葉に続き、食料部門のガストンも、巨体を揺らしながら口を開く。
「左様でございます。我々は真っ当な商取引を行っていただけ。それを、なんの事前の通告もなしに、武力で倉庫を封鎖し、御者たちを不当に拘束した財務院のやり方こそ、王都の商業法に違反する『暴挙』ではありませんかな」
ガストンの言葉に、横に立つバウマン局長が「貴様ら、財務卿閣下に向かって……!」と剣の柄に手をかける。
だが、ヴァルターはそれを片手で制し、鼻で笑った。
「真っ当な商取引だと? 笑わせるな。中央倉庫の第一ブロックには、大量の小麦粉と、本来市場に出回るべき大量のポーションが隠匿されていたではないか。あれこそが、品薄を偽装するための退蔵の証拠だ」
「隠匿ではありません」
バルトが、懐から分厚い羊皮紙の束を取り出し、鉄の机の上にバンッ!と叩きつけるように置いた。
それは、リリアが前夜に用意させていた『正規の契約書』の束だ。
「それは、王立療養院の重症病棟、および北方騎士団と交わした、ポーションと止血薬の『正規納入契約書』です。中央倉庫にあった物資は、彼らの元へ今朝納品される予定だった『予約品』に過ぎません」
「……何?」
「さらにこちらを」
ガストンが別の羊皮紙を重ねる。
「これは、王都南区にある五つの孤児院と、三つの救貧院へ向けた、消毒液と栄養剤、そして小麦粉の無償提供……すなわち『寄付』の証明書でございます。利益など一分も乗せておりません。……閣下は、我々が利益を独占するために物資を溜め込んでいると仰いましたが、利益の出ない慈善事業の物資まで『不当な独占』だと断ずるおつもりですか?」
書類に押された、王立療養院長と教会の正式な印璽。
それは、一切の偽造が不可能な、完璧な法的証拠だった。
ヴァルターの目が、初めて僅かに見開かれる。
「……馬鹿な。お前たちのような金の亡者が、孤児院への無償提供など……!」
「我々をただの強欲な商人と侮らないでいただきたい」
マダム・セリアが、扇を優雅に広げて微笑む。彼女の顔にも、もはや怯えはない。
「我々は、王都の民の生活を支える誇り高き商人ですわ。……財務卿閣下。閣下が不当に倉庫を封鎖したせいで、危うく療養院の患者たちが命を落とし、孤児院の子供たちが飢えるところでしたのよ。その責任、一体どうお取りになるおつもり?」
自分たちが絶対的優位に立っていると信じていたヴァルターの顔から、余裕の笑みが完全に消え去る。
彼が描いていたシナリオはこうだ。
倉庫を封鎖すれば、王都の物流は止まる。五大商会は慌てふためき、裏金や武力といった『不正な手段』に必ず訴え出てくる。そこを反逆罪として一網打尽にする。
だが、彼らは裏工作など一切せず、ただ正面から『法的に完璧な正論と善意の証明』を武器にして、財務卿の喉元に刃を突きつけてきたのだ。
「……詭弁だな」
ヴァルターは書類を乱暴に払いのけ、立ち上がる。
「いくら紙切れで取り繕おうと、貴様らが裏で手を結び、市場を牛耳っている事実に変わりはない。このまま倉庫の封鎖を続ければ、明日には王都の市場は完全に干上がる。そうなれば、貴様らも……」
ヴァルターが強弁を振るおうとした、まさにその時だった。
――ゴゴゴゴゴ……!!
地鳴りのような重低音が、窓のない地下の査問室にまで響き渡ってきた。
それは、地震ではない。無数の人間の足音と、怒号の入り混じった『声のうねり』だった。
「な、なんだ、この音は!?」
バウマン局長が狼狽え、査問室の重い鉄扉を開けて外の部下に確認を促す。
駆け込んできた監査隊の兵士は、顔を真っ白にして叫んだ。
「ほ、報告します! 財務院の庁舎前広場が……完全に群衆に包囲されました!!」
「群衆だと!? 暴徒か! 警備隊を出して鎮圧しろ!」
ヴァルターが怒鳴るが、兵士は首を横に振る。
「ち、違います! 集まっているのは暴徒ではありません! 白衣を着た王立療養院の医師たち、教会の神父やシスター、そして、無数の平民たちです! 彼らは口々に『五大商会の代表を解放しろ』『患者と孤児の薬を不当に奪う財務卿を許すな』と抗議の声を上げています!」
「……な、に?」
ヴァルターの顔が、今度こそ完全に硬直する。
「さらに、広場の外側には、上位貴族の家紋を掲げた馬車が何台も乗り付けてきております! 『化粧品が届かないのは財務卿の嫌がらせか』『夜会に間に合わなければどう責任を取るのか』と、我々監査隊に詰め寄ってきており……警備の兵士たちも、相手が上位貴族や神父では、下手に手を出すことができず……!」
完全な、四面楚歌。
武力による包囲網を敷いたはずの財務卿が、逆に『民意』と『貴族の不満』という、国家すらも揺るがす巨大な波によって、完全に庁舎ごと包囲されたのだ。
「……閣下。外の音がお聞こえですか?」
バルトが、静かに、しかし確かな優越感を持って問いかける。
「あれが、我々が王都で築き上げてきた『信用』の答えです。閣下が倉庫の扉に鎖をかけても、我々の築いた信用の鎖を断ち切ることはできなかったということです」
ヴァルターはギリッと奥歯を噛み締め、五人の代表たちを睨み据える。
「貴様ら……。これほどの民衆を、たった一晩で扇動したというのか? 貴様らのような浅知恵の商人に、これほど完璧な盤外戦術が仕組めるはずがない……!」
ヴァルターの鋭い眼光が、代表たちの顔を順番に射抜く。
彼は気づいたのだ。
目の前で強がっているこの五人の背後に、冷酷で、恐ろしく計算高く、そして王都の裏の裏まで知り尽くした『絶対的な支配者』が存在していることに。
「……誰だ。誰が貴様らの背後で糸を引いている?」
ヴァルターの問いに、代表たちは誰一人として口を割らない。
彼らの脳裏には、昨夜、泥まみれになりながらも「品質だけは絶対に下げるな」と職人たちを鼓舞し、たった一人でこの絶望的な反撃の絵図を描き切った、十六歳の少女の凛とした姿が浮かんでいた。
国家権力よりも、遥かに恐ろしく、そして頼もしい自分たちの『女王』。
彼女を売るくらいなら、ここで舌を噛み切った方がマシだ。五大商会の代表たちは、言葉を持たぬ沈黙で、最高権力者への完全な勝利を宣言した。
「……バウマン。こいつらを解放しろ」
長い沈黙の末、ヴァルターは血を吐くような声で命じた。
「か、閣下!? しかし、それでは我々の監査が不当であったと認めることに……!」
「外の惨状が分からないのか! これ以上拘束を続ければ、王室にまで騒ぎが届く! 中央倉庫の封鎖も直ちに解け! ……今は、退くしかあるまい」
ヴァルターはマントを翻し、査問室から足早に立ち去っていくその後ろ姿は、明らかに屈辱に塗れていた。
重い鉄扉が開き、五大商会の代表たちは解放された。
彼らが財務院の正面階段を上り、太陽の光が降り注ぐ広場に姿を現した瞬間。
待ち構えていた数千人の群衆から、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
「おおおっ! 商会の旦那たちが解放されたぞ!」
「あんたたちは王都の恩人だ! よくぞ悪徳役人に屈せずに頑張ってくれた!」
民衆に揉まれ、感謝の言葉を浴びながら、バルトやガストンたちは、信じられないものを見るような顔で互いの顔を見合わせた。
今まで、平民たちから金を搾り取るだけの存在だった自分たちが、まさか『英雄』として歓声で迎えられる日が来るとは。
(……会長。あなたが仰っていた『利益よりも信用』の意味が、今なら痛いほど分かります)
彼らは、王都の青空を見上げながら、その見えざる女王に向かって深い感謝の祈りを捧げていた。
***
同時刻。王立アークレイン学園。
「ふわぁ……よく寝たわ」
私は午後の魔法史の授業の最中、教科書の陰でひっそりとあくびを噛み殺していた。
包帯を巻いた手の痛みはまだ引かないが、徹夜の疲労はかなり回復している。
窓の外を見ると、遠く財務院の方向から、微かに歓声のようなものが風に乗って聞こえてきた気がした。
「きゅん?」
鞄の中で目を覚ましたルンが、小首を傾げる。
「ええ、終わったみたいね」
私は誰にも見えないように、教科書の陰で小さくガッツポーズを作る。
財務卿ヴァルターの鼻をへし折り、見事に王都の物流を守り抜いた。これで、私たちの商会は前よりも強固な『信用』という盾を手に入れたことになる。
だが、私はまだ油断していなかった。
(あのプライドの高いヴァルター・グレイスが、このまま大人しく負けを認めるとは思えない。彼が背後の『私』の存在に気づき、なりふり構わず直接アルフェイド家を潰しに来た時……その時こそ、お父様の『王妃の緊急通行証』を使う時よ)
私は再び教科書に視線を落とし、完璧な『無害で地味なモブ令嬢』の仮面を被り直す。
表舞台での劇的な大逆転劇は終わった。
しかし、本当の権力闘争(ボス戦)は、まだその火種をくすぶらせたままであることを、私は冷徹に理解していた。




