シーン6:深夜の郊外倉庫、命を量る品質基準
深夜の王都郊外。
街の中心部を照らしていた無数の魔力灯は遠く後方に遠ざかり、馬車の窓の外には、深い藍色に染まった夜の闇と、風に揺れる木々の黒いシルエットだけが続いている。
石畳の道はとっくに途切れ、馬車の車輪は轍の刻まれた土の道をガタゴトと重々しい音を立てて進む。
「……冷えるな。リリア、私の外套を膝に掛けなさい」
向かいの席に座る父、ガイウスが、自分の肩から分厚いウールの外套を外し、私の膝の上へとふわりと被せてくれる。
父の体温と、微かな葉巻の香りが残る外套に包まれ、私は小さく頷く。
「ありがとう、お父様。でも、私は大丈夫よ。それよりも……」
私は手元に広げた小さな羊皮紙のメモに視線を落とす。
魔力灯の出力を極限まで絞った薄暗い車内でも、そこに書かれた絶望的な数字の羅列ははっきりと読み取れる。
王都の各店舗と、職人組合の倉からかき集めた緊急在庫の総量。
美容部門のリソースを全て医療と食料の輸送に回すという決断によって、人員と荷馬車の確保には成功した。だが、肝心の『中身』が圧倒的に足りない。
王立療養院と騎士団が明日必要とする特級回復ポーションの量に対し、完成品のストックはどう計算しても三割不足している。
「……足りないわ。完成品だけじゃ、明日の夜には療養院の重症病棟で薬が完全に底をつく」
私がギリッと奥歯を噛み締めると、膝の上で丸くなっていたルンが、不安そうに「きゅぅ」と鳴いて私を見上げる。私はルンの背中を指先でそっと撫で、自分自身を落ち着かせるように深く息を吐き出す。
「だから、この郊外の『第七予備倉庫』に向かっているのだろう? そこにポーションの原料が残っているのなら、今から徹夜で抽出作業を行えば、明日の朝には間に合うはずだ」
父が、元近衛騎士らしい力強く頼もしい声で励ましてくれる。
だが、私の心の中の暗雲は晴れない。
「ここは本来、新商品のテスト開発に使うための試作品と、市場に出せない予備の原料を保管しておくための場所よ。……温度管理の魔力設備も最低限しか入れていない。あそこに残っている薬草が、どこまで『生きて』いるか……」
ギィィィン……と。
馬車が大きく傾き、車輪が摩擦音を立てて停止する。
御者台からトマが降りる足音が聞こえ、すぐに馬車の扉が開かれる。
「旦那様、お嬢様。第七予備倉庫に到着いたしました」
トマの掲げるカンテラのオレンジ色の光が、夜の闇の中に浮かび上がる古びた木造の建物を照らし出す。
表向きは、農家が使わなくなった古い農機具小屋。外壁の板はところどころ腐り落ち、屋根には苔がびっしりと生えている。とても王都の経済を裏で操る商会の施設には見えない。
「私が先に行こう。トマ、周囲の警戒を頼む」
父が剣の柄に手をかけながら馬車を降り、私をエスコートするために手を差し出してくれる。
私は父の分厚い手を取り、冷え切った土の地面へと降り立つ。
吐く息が真っ白な煙となって夜空に溶けていく。王都の中心部よりも、郊外の夜風はずっと鋭く、肌を刺すような冷たさを持っている。
父が小屋の古びた南京錠を素早く外し、重い木戸をギィ……と押し開ける。
途端に、鼻を突く強烈な匂いが押し寄せてくる。
乾燥した土の匂い。古い木の匂い。そして、長期間放置された薬草が放つ、青臭くもツンとする酸化の匂い。
「きゅんっ! くしゅんっ!」
肩に乗っていたルンが、むせ返るような匂いに耐えきれず、小さな前足で鼻を擦りながらくしゃみを連発する。
「ごめんね、ルン。少しの間だけ我慢して」
私はルンをコートの襟の裏に隠し、カンテラの光を頼りに小屋の奥へと足を踏み入れる。
外観はボロボロの農機具小屋だが、内側には防湿用の厚い漆喰が塗られ、床には底冷えを防ぐための木板が二重に敷かれている。
その狭い空間の壁際に、いくつかの木箱が無造作に積み上げられている。
「これだな。……リリア、開けるぞ」
父が一番手前にある木箱の蓋に手をかけ、力を込めて持ち上げる。
バキッという釘の抜ける音とともに、木箱の蓋が開く。
カンテラの光が、箱の中身を照らし出す。
そこに入っていたのは、ポーションの主原料である『月白根』の乾燥葉だ。
「……どうだ、リリア。これだけあれば、療養院の不足分は補えるのではないか?」
父が安堵したような声で問いかけてくる。箱の中には、確かにぎっしりと乾燥葉が詰まっている。体積だけで言えば、ゆうに千回分のポーションを抽出できる量だ。
だが、私は無言のまま木箱に近づき、顔を近づけて深く匂いを嗅ぐ。
本来の月白根は、乾燥させても微かな柑橘系に似た爽やかな香りを残す。だが、この箱から立ち上るのは、ただの枯れ草の匂い。いや、それ以上に……。
私は手袋を外し、素手で箱の表面の葉を一つまみすくい上げる。
指の腹で軽くこすり合わせる。
カサッ……と、葉が粉々に砕け散り、指の隙間からこぼれ落ちていく。
「……駄目ね。表面のこの層は、完全に『死んで』いるわ」
「死んでいる? しかし、見たところカビも生えていないし、ただ乾燥しているだけに見えるが」
父が不思議そうに眉をひそめる。
「乾燥しすぎているのよ。月白根の細胞賦活酵素は、一定の湿度を保たないと細胞壁と一緒に崩壊してしまう。……表面の葉は、空気中のわずかな湿気すらも吸い尽くして、完全に酸化している。これを抽出しても、ただの苦いお茶にしかならないわ」
私は前世の化学知識に基づき、冷徹な判定を下す。
箱の上部、約三分の一の深さまで手を入れてみるが、感触はどれも同じ。カサカサに乾燥し切り、有効成分が完全に抜け落ちている。
「お父様、箱の中身を床のシートの上に全部ぶちまけて。奥の層を確認するわ」
私の指示に、父は頷き、重い木箱を軽々と持ち上げて、床に敷いた清潔な布の上へ中身をドサリとひっくり返す。
土ぼこりのような粉が舞い上がる。
私は迷わずその薬草の山に膝をつき、両手で葉を掻き分ける。
表面の死んだ葉を避け、箱の底の方、中心部に押し固められていた層へと指を滑り込ませる。
(……これよ)
指先に、先ほどとは違う感触が伝わる。
カサカサとした乾燥の中にも、ほんの僅かな『しっとりとした重み』がある。
私はその部分の葉を一枚手に取り、カンテラの光に透かす。
死んだ葉が茶褐色に変色していたのに対し、この中心部の葉は、かすかに銀色を帯びた本来の緑色を保っている。
指先で軽く千切ると、ぷつりという微かな手応えとともに、爽やかな柑橘の香りがフワリと漂い上がる。
「きゅるっ!」
ルンが襟元から顔を出し、その香りに反応して嬉しそうに鼻をひくつかせる。
「……箱の中心部、空気に触れていなかった部分だけは、酵素が生きているわ。でも、全体の三割……いや、二割程度ね」
私は立ち上がり、両手についた粉を払い落としながら、絶望的な計算結果を口にする。
「二割……!? 箱の八割を捨てるというのか!?」
父が驚愕の声を上げる。
「ええ。死んだ葉を混ぜて抽出液を作っても、全体が薄まるだけよ。……この倉庫にある木箱を全て開けて、生きている中心部だけをより分けても、作れるポーションはせいぜい二百本。療養院が明日必要とする数には、全く届かない」
小屋の中に、重苦しい沈黙が落ちる。
カンテラの炎が、風もないのにジリッと音を立てて揺れる。
「……リリア。お前の専門知識に口出しするつもりはないが」
父が、苦渋に満ちた声で口を開く。
「明日の朝、ポーションが届かなければ、多くの患者が激痛に苦しみ、最悪の場合命を落とす。……ならば、その『死んだ葉』とやらも一緒に煮出して、数を確保することはできないのか?」
父の言葉は、私の心を鋭くえぐる。
「効き目が落ちることは分かっている。だが、水で薄めてでも、全ての人間に薬を行き渡らせるべきではないのか? 完全に効かなくても、半分でも痛みを和らげることができるなら、百人の患者を完全に治すより、千人の患者を半分でも救うべきだ。……商会の利益ではなく、人の命を救うための妥協だ」
父の言葉は、正論だ。
極限状態における、最も人間的で、優しい選択。
きっと、この世界の錬金術師たちなら、迷わずそうするだろう。効き目が薄いと誤魔化しながら、泥水のようなポーションを大量に作って配るはずだ。
(……妥協。品質を落とし、水で薄めて、多くの人に配る。そうすれば、とりあえず明日のパニックは抑えられる。私の商会は『約束の数を揃えた』と言い訳ができる)
私の脳内で、経営者としての悪魔の囁きが響く。
だが。
私の魂に刻み込まれた、商品開発者としてのプライドが、その囁きを怒りとともに叩き潰す。
「……駄目よ、お父様」
私は真っ直ぐに父の目を見つめ返し、明確な拒絶を口にする。
「なぜだ。品質にこだわるあまり、救える命を見捨てるのか?」
父の声に、微かな非難の色が混じる。
「違うわ。品質を落とすことが、命を見捨てることなのよ」
私は床に散らばった薬草の山を指差す。
「いい? お父様。薬っていうのはね、効くか効かないか分からない『気休め』であってはならないの。……例えば、戦場で深く足を斬られた兵士がいるとするわ。彼は、このポーションを飲めば『絶対に傷が塞がる』と信じているからこそ、無理をしてでも立ち上がり、剣を振るうのよ」
私は一歩前へ踏み出し、父に迫る。
「でも、もし私たちが水で薄めた、効き目の遅いポーションを配ったらどうなる? 兵士は傷が治ったと錯覚して走り出し……次の瞬間、塞がりきっていなかった傷口が開いて、大量出血で死ぬわ」
父の目が、ハッと見開かれる。
「療養院の患者だって同じよ。薄めたポーションで一時的に痛みを抑えても、体内の魔物毒を完全に中和できなければ、数日後に必ず再発して、今度こそ命を落とす。……『効くかもしれない』という曖昧な薬は、患者から正しい治療の機会を奪う『偽りの希望』という名の猛毒なのよ」
私は両手で自分の肩を抱きしめる。
冷たい夜風のせいではない。命の重さを数字で測らなければならない、この選択の恐ろしさに、身体の芯が震えているのだ。
「私は、商売人よ。お金をもらって、その対価として『絶対に効果のある商品』を渡す。そこに言い訳は一切持ち込まない。……たとえ相手が王族であれ、貧しい平民であれ、私が『リリア・アルフェイド』の名前で市場に出す以上、絶対に命を預けられる品質でなければならないの」
私の決意に満ちた声が、薄暗い小屋の中に響き渡る。
「量を確保するために、品質を捨てる。そんな妥協を一度でも許せば、私たちが築き上げてきた『信用』は根底から腐り落ちる。……足りないなら、足りないとはっきり言うわ。その上で、どうやって最悪の事態を防ぐかを、別の方法で考えるのよ」
私は言い切り、荒くなった呼吸を整える。
父は無言のまま、私の顔をじっと見つめている。
その瞳には、先ほどまでの非難の色は完全に消え去り、代わりに、信じられないほど深く、温かい光が宿っていた。
「……そうか」
父は小さく息を吐き出し、ふっと口元を緩める。
「お前は、本当に強いな。リリア」
「え……?」
「私が間違っていた。死地に立つ兵士にとって、最も必要なのは『絶対の信頼』だ。剣の刃が脆いかもしれないと疑いながら戦う兵士は、必ず死ぬ。薬も同じだな。……お前の言う通りだ。品質だけは、絶対に曲げてはならない」
父はそう言うと、床に散らばった薬草の山に向かって膝をつき、自らの分厚い手で、中心部の『生きている葉』だけを丁寧に拾い集め始めた。
「お父様……」
「さあ、急ぐぞ。二割だろうと三割だろうと、完全な効力を持つポーションを作ればいい。二百人分の完璧な命の盾を、お前の手で作り上げるんだ。……足りない分をどうするかは、お前なら必ず別の手を見つけると、私は信じている」
父の大きく、頼もしい背中。
その姿に、私の胸の奥に詰まっていた氷の塊が、ふわりと溶けていくのを感じた。
「きゅっ!」
ルンも私の肩から床に飛び降り、小さな前足で緑色の葉っぱを器用に拾い上げて、父の横に集め始める。
「……ええ。絶対に、見つけてみせるわ」
私は力強く頷き、コートの袖をまくり上げて、父の隣に膝をつく。
冷たい土の床。むせ返るような薬草の匂い。
たった二百本。
それでも、この二百本は、一切の妥協を許さない私が作る、王都で最も完璧な『命の結晶』になる。
(品質基準だけは、絶対に下げない。この泥臭い誇りこそが、いずれ必ず、財務卿の薄汚い権力を打ち砕く最大の武器になる)
私はカンテラの淡い光の下で、一つ一つの葉の命の重さを確かめるように、無言で選別作業を続けた。
夜明けまで、まだ時間は残されている。
王都の命脈を繋ぐための、長く、そして最も熾烈な夜が、更けていく。




