シーン5:通信機越しの反発と、規律を束ねる共同基金
円卓の間での大方針の決定から数分後。
私は漆黒のコートの裾を翻し、ガラス扉を押し開けて再び広大な執務フロアへと足を踏み出す。
フロアの空気は、先ほどまでの「未知の脅威へのパニック」から、「明確な反撃に向けた戦場の熱気」へと完全に切り替わっている。グレーの制服を着た職員たちが、手に手に羊皮紙の束を握りしめ、インクの染みを顔に作りながら小走りで交差していく。
「南区の第十二店舗、裏口の在庫確認完了! 止血薬が五十缶あります!」
「東区の工房から報告! 洗浄用のアルコール樽、三つ確保!」
フロアのあちこちから飛び交う報告の声をBGMに、私は壁際にずらりと並んだ魔力通信機のブースへと一直線に向かう。
そこでは、数十人の通信手たちがヘッドセットを耳に当て、王都中に散らばる加盟店からの通信を必死に捌いている。
「ええ、ですから! 会長の決定により、明日の化粧品の入荷は全面的に……はい、お待ちください、現在回線が混み合って……!」
最も端のブースで、マダム・セリアの部下である美容部門の通信手が、悲鳴のような声を上げて対応に追われている。通信機に埋め込まれた青い魔力石が、相手の激しい怒りを反映するように明滅を繰り返している。
「状況は?」
私が背後から声をかけると、通信手はビクッと肩を跳ねさせ、振り向く。
「か、会長! 王都の一等地、一番街に店を構える高級化粧品店の店主たちから、猛烈な抗議が殺到しております! 『いきなり入荷を止められたら、明日の朝から並ぶ貴族のお客様に何と説明すればいいんだ』『暴動が起きる』『商売あがったりだ』と……!」
「貸しなさい」
私は通信手から強引にヘッドセットを奪い取り、自分の耳に当てる。
途端に、複数の店主たちの怒号が、ノイズ混じりの大音声となって鼓膜を叩く。
『――ふざけるな! うちの顧客リストには伯爵夫人も名を連ねているんだぞ! 品切れだと言って機嫌を損ねられたら、店を潰されかねないんだ!』
『そうです! ポーションの輸送が大事なのは分かりますが、なぜ我々美容部門だけが割を食わなきゃならないんですか! 少しでもいい、在庫を回してくれ!』
(……なるほど。現場の店主たちからすれば、突然の供給停止は死活問題ね。上客である上位貴族の怒りを一身に受けるのは、彼ら末端の人間なのだから)
私は通信機の送話口を指先でトントンと二回叩き、回線に乗っている全ての店主たちに聞こえるように、低く、しかし極めてクリアな声で通告する。
「騒がないで。私が直接答えるわ」
私の声が届いた瞬間、通信機の向こう側で怒鳴り散らしていた店主たちの声が、ピタリと止まる。
『か、会長……!?』という、息を呑む気配が魔力の波紋を通して伝わってくる。
「あなたたちの不安と不満はもっともよ。突然、明日売る商品がゼロになるのだから。……でも、貴族の怒りが怖いからといって、ここで私たちが限られた手押し車を化粧品の運搬に使えば、どうなるか分かる?」
私は通信機の青い光を見つめながら、淡々と、しかし凄みを利かせて語りかける。
「王立療養院にポーションが届かず、死人が出るわ。もし、その死人が平民だった場合……『あそこの化粧品店が馬車を独占したせいで、俺たちの家族は死んだ』という噂が、王都中に広まることになるのよ」
『ヒッ……』
通信機の向こうで、誰かが小さく喉を鳴らす音が聞こえる。
「貴族の不機嫌は、謝罪とお茶会で誤魔化せる。でも、平民の『恨み』は違うわよ。彼らは暴徒になって、あなたたちの美しいガラス張りの店舗に石を投げ込み、火を放つわ。……貴族の怒りと、平民の暴動。どちらが店にとって致命的か、商人なら計算できるわよね?」
冷水のような私の理屈が、店主たちの頭を強制的に冷却していく。
「だ、だが会長……! 我々にも生活があります! 明日からの売上がゼロになれば、家賃も従業員の給料も払えなくなります! 店を燃やされる前に、首を吊ることになりますぞ!」
一人の初老の店主が、悲鳴に近い声で食い下がる。
私は漆黒のコートのポケットから手帳を取り出し、パラパラとページをめくる。
「首なんて吊らせないわ。私たちの銀花会議を、ただ商品を卸すだけの薄情な問屋と一緒にしないでちょうだい」
私は送話口に口を近づけ、はっきりと宣言する。
「化粧品の出荷停止期間中に発生するあなたたちの『機会損失』は、全て銀花会議の『共同基金』から全額補填するわ」
『……こ、共同基金から!?』
『全額、ですか!? しかし、王都中の高級店全ての売上となれば、莫大な額になりますぞ!』
店主たちが驚愕の声を上げる。
『共同基金』。
それは私が商会連合を立ち上げた時から、各店舗の売上から数パーセントずつを天引きし、秘密裏に蓄え続けてきた莫大なプール金だ。本来は新しい物流ルートの開拓や、大火災などの災害時の再建費用としてストックしているものだが、その額はすでに王都の小規模な銀行を丸ごと買収できるほどの規模に膨れ上がっている。
「ええ。あなたたちの店は一つ残らず、私が金で守ってあげる。だから、安心して店を閉めなさい。明日から数日間、従業員たちには有給休暇を与えて、家で静かに過ごさせるのよ」
私の絶対的な保証に、通信機の向こうから『おおぉ……!』という歓喜と安堵のため息が漏れ聞こえてくる。
だが、私はすぐに声を一段階低く落とし、その歓喜を冷たい刃で切り裂く。
「ただし。……補填の額は、過去三ヶ月の平均売上をベースに厳格に算出するわ」
私は手帳をパタンと閉じ、氷のような声で釘を刺す。
「この緊急事態に乗じて、架空の予約客をでっち上げたり、帳簿を改竄して補填金を多めにせしめようとする輩が出ないとも限らないからね。……もし、一分でも虚偽の損失申告をした店舗があれば、即刻、銀花会議から『除名』するわ」
『っ……!』
「除名されれば、二度とうちの商品を卸さない。それだけじゃないわよ。王都の全ての問屋に手を回して、あなたたちの店には石鹸一つ、香草一束すら入らないように完全に干し上げる。……裏切り者には、王都の土を舐めて死んでもらうわ。分かったわね?」
優しさという絶対的な飴と、破滅という絶対的な鞭。
その二つを突きつけられた店主たちは、もはや反論する気力すら奪われ、通信機の向こうでただ平伏するしかなかった。
『は、ははぁっ! 肝に銘じます! 会長のご指示通り、明日は全店舗、休業の張り紙を出させていただきます!』
『共同基金の件、誠にありがとうございます! 一生涯、会長について行きます!』
「結構。では、引き続き各支部長の指示に従って動くように」
私は通信を切り、ヘッドセットを通信手に返す。
通信手は、私の圧倒的な交渉術――いや、ただの脅迫と買収の合わせ技を目の当たりにして、ぽかんと口を開けたまま固まっている。
「……何をしているの。今の通達を、美容部門以外の全ての部門の末端店舗にも、文章にして一斉送信しなさい。休業補填は出し渋らない、でも不正は絶対に許さない。その方針を王都中に徹底させるのよ」
「は、はいっ! ただちに!」
通信手が弾かれたように羊皮紙に向かい、ペンを走らせる。
(……これで、末端の不満は完全に押さえ込んだ。共同基金の存在をチラつかせたことで、加盟店たちの忠誠心はかえって高まるはず。それに、この数日間の休業は、結果的に市場における化粧品の『極端な品薄状態』を作り出し、事態が収束した後の爆発的な売上増に繋がる)
私はフロアの中央へと歩き戻りながら、頭の中で瞬時に計算を終える。
莫大な補填金を支払っても、長期的には必ず黒字になる。それが私の経営戦略だ。
ただ、一つだけ懸念があるとすれば。
(『共同基金』という、莫大な額の隠し資産。表向きの帳簿には記載していない、銀花会議の真の体力。……もし、財務卿ヴァルターが監査の過程でこの基金の存在に気づけば、彼は間違いなく『不正な蓄財』や『国家への反逆資金』という名目で、強引に没収しに来るわね)
私は小さく息を吐き出す。
だが、隠しているだけでは使えない。今は、王都の血流を止めないために、使えるカードは全て切るしかないのだ。
「きゅるっ!」
ルンが私の肩の上で、心配そうに私の頬をペロリと舐める。
そのザラリとした小さな舌の感触に、私はふっと口角を上げる。
「大丈夫よ。私たちのお金は、誰にも奪わせない。……さあ、次は郊外の予備倉庫の確認に行くわよ」
私は漆黒のコートを翻し、さらに活気を増していく執務フロアの奥へと、ヒールの音を響かせながら歩みを進めた。




