シーン4:全商会への緊急供給計画と、利益を捨てる決断
「……ベルノ。全商会に対して、特例の『緊急供給計画』を発動するわ」
賄賂の提案を一蹴された代表たちが静まり返る中、私は円卓の上の流通地図を両手で力強く押さえ込み、新たな指示を口にする。
「緊急供給計画……。ついに、あれを使うのですね」
ベルノが眼鏡の奥で鋭く目を光らせ、手元の分厚いマニュアルのページをバサリと素早くめくる。
それは、私がこの商会を立ち上げた初期に作成し、万が一の天災や戦争によって王都の物流が麻痺した時のために用意しておいた、極秘のバックアップ手順書だ。
「ええ。中央倉庫の在庫は、今はもう『存在しないもの』として計算しなさい」
私は地図上の第三区画、赤く染まった中央倉庫の図から視線を外し、王都全体に広がる無数の小さな区画へと目を向ける。
「五大商会が管轄している王都中の全ての小規模店舗、そのバックヤードにある保管庫。職人組合が地下に持っている個別の倉。さらに、王都近郊の農村に点在させている郊外工房の予備在庫。……今すぐ、それら全てを洗い出しなさい。帳簿の隅から隅まで、埃を被った木箱の一つに至るまで、完全に把握するのよ」
「はっ。直ちに各支部長へ魔力通信を繋ぎ、在庫の再集計を命じます。ですが会長、それら全てをかき集めたとしても、中央倉庫の膨大な物資量には遠く及びません。王都全体の需要を満たすことは不可能です」
「需要の『全て』を満たす必要はないわ。……『トリアージ(優先順位付け)』を行うのよ」
「トリアージ、ですか?」
前世の医療・災害用語に、ベルノが聞き慣れないというように首を傾げる。
「物資の用途別に、命に関わる度合いでランク付けを行うということよ。……第一優先は、医療品と衛生用品。バルト、あなたのところのポーション、止血薬、解毒剤、そして孤児院向けの消毒液。これらは一切の妥協なく、全店舗の在庫を強制的にかき集めて、王立療養院と騎士団、そして各区画の診療所へ最優先で再配分しなさい」
「は、はいっ! 医療品最優先ですね!」
バルトが弾かれたようにメモを取る。
「第二優先は、水と食料、そして燃料。ガストン、小麦粉や塩、それに越冬用の薪と石炭。これらも小規模倉庫から全て吐き出させて、南区や東区の平民街を中心に、均等に供給が行き渡るように調整するの。絶対に一部の地域で品切れを起こさせては駄目よ」
「し、しかし会長。それらを全てかき集めるための人員と輸送用の手押し車が……」
「人員なら、手の空いている全部署の人間を使いなさい。事務員も、営業も、もちろんここにいるあなたたち幹部もよ。荷馬車が使えないなら、全員で背負ってでも運ぶの。……そして、その輸送リソースを捻出するために、一つの部門を完全に『停止』させるわ」
私は言葉を切り、円卓の左側に座るマダム・セリアへと視線を突き刺す。
「セリア。……美容部門および香水部門の全ての製品、その出荷と店舗間の移動を、本日のこの時刻をもって『全面凍結』しなさい」
ピタリ、と。
円卓の間の空気が、呼吸を忘れたように完全に停止する。
「……は? ふ、凍結……?」
セリアの口から、間抜けな声が漏れる。
彼女は自分が何を言われたのか、脳の処理が追いついていない様子で目を白黒させている。
「だから、化粧品と香水は一切出荷しないと言っているの。店舗のバックヤードにある在庫も、そのまま鍵をかけて一切動かさない。……美容部門が確保していた荷馬車、手押し車、輸送用の人員、それに護衛。その全てを、第一優先の医療品と第二優先の食料の輸送に回しなさい」
私の明確な命令が下された瞬間、セリアの顔が真っ赤に沸騰する。
「お、お待ちくださいませ、会長!! それはあまりにも横暴ですわ!」
セリアがバンッ! と両手で円卓を叩き、椅子から立ち上がる。
「美容部門は、我が銀花会議の中でもトップクラスの利益率を誇る稼ぎ頭ですのよ!? 先ほどの会議でも申し上げた通り、『夜明けの雫』や新作石鹸は予約が殺到しております! それを全て凍結するだなんて……! 店舗の利益がゼロになるどころか、莫大な機会損失を生み出しますわ!」
「ええ、分かっているわ。莫大な機会損失ね」
私は冷ややかな声で肯定し、手元の計算盤を指先で弾く。
「美容部門の物流を止めれば、一日あたり金貨数百枚単位の利益が吹き飛ぶ。加盟している高級化粧品店の店主たちも、売るものがないと悲鳴を上げるでしょうね」
「分かっておいでなら、どうして! 利益率の高い化粧品を優先して売り捌き、その利益で足りない医療品を他から高く買い付ける方が、商人として正しいやり方ではありませんか!」
セリアの抗議に、他の代表たちも小さく頷いている。
確かに、目先の帳簿の数字だけを見れば、セリアの主張は極めて論理的だ。儲かるものを売り、その金で解決する。それが伝統的な商人の基本戦略なのだから。
だが、私は漆黒のコートの袖を払い、ゆっくりと立ち上がる。
「セリア。あなたは、貴族の令嬢の『肌の潤い』と、騎士の『流れる血』。どちらが今日、この王都で優先されるべき命の重さだと思う?」
「それは……! ですが、我々は商人です! 命の重さではなく、金貨の重さで価値を量るのが……」
「三流ね」
私の絶対零度の声が、セリアの反論を氷漬けにして砕き割る。
「……え?」
「いいこと、セリア。よく頭に刻み込みなさい」
私はテーブル越しに彼女を鋭く見据え、一字一句、脳裏に焼き付けるように告げる。
「私たちは、ただの金貸しや転売屋じゃないのよ。この王都の経済そのものを設計し、人々の生活の基盤を握っている『支配者』なの。……その私たちが、王都の危機に際して、利益が高いからという理由で化粧品を優先し、利益の低いポーションや消毒液を後回しにしたら、どうなる?」
私は視線を外し、円卓を囲む全員の顔を順に見回す。
「患者の傷は腐り、孤児院には熱病が蔓延する。その傍らで、貴族の令嬢たちだけが香水を振りまいて美しく着飾っている。……そんな狂った地獄絵図を作り出した商会を、平民たちが、明日からも信用してくれると思う?」
代表たちの喉が、ゴクリと大きく動く。
「財務卿のヴァルターは、私たちを『民の生き血をすする強欲な商人』だと触れ回り、自分こそが王都を正しく管理する救済者だという物語を作ろうとしているのよ。私たちがここで利益を優先すれば、彼の作ったその物語を、私たち自身の手で完璧に証明してしまうことになるわ」
「あ……」
セリアの口から、言葉にならない掠れた音が漏れる。
彼女はようやく、自分がどれほど致命的な悪手――敵の誘い水に乗ろうとしていたのかに気づいたのだ。
「今、私たちが優先すべきは目先の金貨じゃない。……『利益よりも、人々の命と生活を優先した商会』という、圧倒的な事実よ」
私は力強く断言する。
「高級化粧品の顧客である貴族たちには、『現在、王立療養院と騎士団への医療品供給を最優先しているため、化粧品の配送を一時停止しております』と、正直に、そして堂々と通達しなさい。……クレームが来る? 大いに結構。自分の美しさのために死人を放置しろと叫ぶ貴族がいるなら、その名前を全てリストアップしなさい。後で私が直接、その家の当主と『お話し』してあげるわ」
私の不敵な笑みに、セリアはブルリと震え、深く頭を下げる。
「も、申し訳ございません……! わたくし、目先の数字に囚われ、商会全体の……いえ、王都全体を見る視点が完全に欠落しておりました……。美容部門の全リソース、直ちに医療と食料の輸送に回しますわ!」
「ええ、頼むわよ」
私は一つ頷き、ベルノに向き直る。
「もちろん、販売機会を失う小規模な加盟店を見捨てるつもりはないわ。化粧品の販売停止によって生じた各店舗の損失分は、後日、商会連合の『共同基金』から全額補填すると約束しなさい。これで店主たちの不満も抑え込めるはずよ」
「承知いたしました。ただし、便乗して虚偽の損失を申告する店舗が出ないよう、過去三ヶ月の平均売上を基準に厳格に査定いたします」
「ええ。もしこの危機に乗じて嘘の申告をして小銭を掠め取ろうとする店舗があれば、容赦はいらないわ。銀花会議から即座に除名し、王都の物流網から永久に追放すると通達しなさい。……優しさで守るのは、誠実な仲間だけ。腐ったリンゴは、一つ残らずゴミ箱へ捨てるわ」
「はっ!」
ベルノが力強く頷き、指示書を猛烈な勢いで書き上げていく。
円卓の間の空気は、先ほどのパニックや目先の利益への執着から完全に脱却し、王都の命脈を保つという『一つの明確な使命』へと完全に統合されている。
(……これで、供給の優先順位は確定した。私たちが利益を投げ打って医療品と食料を優先したという事実は、必ず王都の平民たちの間に口コミで広がる。財務卿がどんなに私たちを悪人に仕立て上げようとしても、現実に彼らの生活を支えているのは私たちだという『信用』だけは、絶対に揺るがない)
私は漆黒のコートのポケットの中で、小さく拳を握りしめる。
この自主的な医療優先策による莫大な赤字。
それは決して損失ではない。後に王都の民衆全員を私たちの絶対的な味方につけるための、極めて安く、そして最も効果的な『投資』なのだから。
「きゅん!」
ルンが、私の決断を称えるように、肩の上でピンと立ち上がって鳴き声を上げる。
「さて、大きな方針は決まったわ。ここからは、具体的にどうやってその医療品を各所に届けるか、現場の泥臭い作業の構築よ。……バルト。まずは王立療養院と騎士団の正確な需要数を出しなさい。一分一秒の無駄も許さないわよ」
私の声に、五大商会の代表たちが一斉に書類の束へと飛びつき、怒涛の実務作業が幕を開けた。
窓のない円卓の間の外では、王都の夜が深く冷たく沈み込んでいく。だが、私たちの戦いは、今まさにこの瞬間から始まろうとしていた。




