シーン3:一度お金で開く扉は、次からもっと高くなる
「……会長。一つ、手っ取り早い提案があるのですが」
重苦しい沈黙が支配する円卓の間で、食料部門を統括するガルド商会の代表、ガストンが口を開く。
彼の太い首には玉のような脂汗が浮かび、首元に巻かれた高級な絹のスカーフはすでに汗で黒ずんでいる。落ち着きなく円卓を叩く彼の太い指には、成金趣味の極太の金指輪がいくつも嵌められており、それが木に当たるたびにコツ、コツと鈍い音を立てる。
「提案? この絶望的な包囲網を前にして、あなたに一体どんな妙案があるというの」
私は漆黒のコートの背もたれに深く寄りかかったまま、視線だけで彼を射抜く。
「簡単なことです。我々は『商人』ではありませんか。相手が国家権力であれ、監査隊であれ、結局のところ中身は人間です」
ガストンは唇をいやらしく歪め、声を潜める。
「監査隊の指揮官であるバウマンは冷酷かもしれませんが、その下で働く末端の役人たちまでが清廉潔白とは限りません。私のガルド商会が裏で付き合いのある警備隊の伝手を使えば、バウマンの目を盗んで、裏口の一つを管理している小隊長クラスに『話を通す』ことは十分に可能です」
「話を通す、ね」
「ええ! 金貨の詰まった袋を三つ、いや五つほど握らせてやれば、深夜の警備の目などどうにでも誤魔化せます。一時間……いや、三十分でいい。裏口の一つを開けさせれば、我々が雇った裏社会の運び屋を使って、ポーションや止血薬といった最も納期が切迫している物資だけでも、強引に運び出せるはずです!」
ガストンの提案に、マダム・セリアやバルトの顔色が一瞬だけ明るくなる。
彼らの目に『その手があったか』という、商人の悪知恵特有の狡猾な光が宿る。
「それは妙案かもしれませんわ! 傭兵を使って正面から暴動を起こすのではなく、金で役人の目を眩ませて裏からこっそりと持ち出す。それならば反逆罪には問われませんし、何より確実です!」
「そうだ! いくら財務院の役人とはいえ、目の前に積まれた金貨の輝きに逆らえる人間などいない! 違約金を払うより、賄賂のコストの方が遥かに安上がりだ!」
代表たちが次々とガストンに同調し、パニックに陥っていた円卓の間に、安直な『裏技』による希望の熱が広がり始める。
私は無言のまま、テーブルの上に置かれたガラスペンを見つめる。
(賄賂を使って、裏口の扉を開ける。……いかにも三流の商人が飛びつきそうな、浅はかで、そして致命的な『劇薬』ね)
私はゆっくりと視線を上げ、興奮する代表たちを氷のような瞳で見回す。
「……却下よ。その提案は、一分の価値もないわ」
私の冷酷な一言が、彼らの熱気を瞬時に凍結させる。
「な、なぜですか会長! このままでは物資は完全に押さえられたままです! 金で解決できる問題なら、金を使うのが我々商人の常套手段ではありませんか!」
ガストンが顔を真っ赤にして反論する。
私は椅子からゆっくりと立ち上がり、両手をテーブルについて彼に顔を近づける。
「ガストン。あなたは、自分がどれほど愚かな『毒』を飲もうとしているのか、全く理解していないわね」
「ど、毒、だと……?」
「ええ。確かに、今夜金貨を五袋積めば、裏口の小隊長は喜んで扉を開けるかもしれない。私たちの急場は、それで凌げるかもしれない。……でもね、一度『お金』で開いた扉は、次からもっと高くなるのよ」
私の低い声が、部屋の空気をビリビリと震わせる。
「役人は馬鹿じゃない。私たちが金貨五袋を出してでも運び出したい物資がそこにあると知れば、彼らは必ず次を要求してくる。明日は金貨十袋。明後日は金貨二十袋。私たちの弱みを握った彼らは、私たちが干上がるまで際限なく血を啜り続ける蛭に変わるわ」
「そ、それは……」
「それに、考えてもみなさい」
私は円卓を回り、ガストンの背後へと回る。
ヒールの硬い音が、彼の心臓の鼓動を急かすように響く。
「賄賂を渡して裏口を開けさせる。それはつまり、私たちが『自分たちはやましいことをしている犯罪者です』と自ら認めることと同義よ。監査隊の指揮官であるバウマンが、その賄賂の事実を少しでも嗅ぎつければどうなる? 彼は大手を振って、私たちをただの独占商会から『国家公務員を買収した重犯罪組織』へと格上げして、王都の広場で私たちの首を刎ねる大義名分を得るのよ」
ガストンの巨体が、ブルリと大きく震える。
目先の利益と保身に目が眩み、その先にある致命的な法的リスクを完全に失念していたのだ。
「私たちが商売の武器にするのは、汚い裏金でも、暴力でもない。あくまで正面からの『契約』と『信用』よ」
私は自分の席へと戻り、漆黒のコートの袖を払って座り直す。
「財務院は、私たちが不当な価格操作を行っているという『疑い』で倉庫を封鎖した。なら、私たちは堂々と全ての帳簿と契約書を開示して、その疑いが完全な言いがかりであることを法的に証明するだけよ。孤児院への寄付に近い無償契約、王立療養院への正規の手続きを経た納入記録。それらを武器にして、正面玄関から堂々と扉を開けさせるの」
「し、しかし会長……! 相手はあの財務院です! 帳簿の正当性など、彼らが適当な理屈をつけて握り潰せば……!」
バルトが青ざめた顔で食い下がる。
「握り潰させるわけがないでしょう。私たちは、ただ帳簿を提出するだけじゃない。王都の世論と、私たちが商品を届けるはずだった顧客の『声』を巻き込んで、監査隊が不正を働けない状況を外堀から完璧に埋め尽くすのよ」
私はテーブルの上に広げられた王都の流通地図を見つめる。
(ガストンが賄賂を持ちかけようとした、裏口を管理する監査隊の小隊長。……財務卿の直属部隊でありながら、裏金で動く可能性がある腐敗した役人が混ざっている。これは、敵の組織が決して一枚岩ではないという強烈なヒントだわ)
私の頭の中で、新たな計算式が組み上がっていく。
(規律でガチガチに固められた部隊の中に、欲に目が眩んだ人間がいるなら、そこから必ず亀裂は生まれる。私たちが賄賂を渡さなくても、その腐敗した役人の存在自体が、後でバウマンの足元を掬う強烈なカウンターの材料に使えるかもしれない)
「きゅんっ」
ルンが、私の考えに同意するように、小さな前足でテーブルの上の羊皮紙をポンと叩く。
「全員、よく聞きなさい。これ以降、監査隊への賄賂や裏工作は一切禁止するわ。違反した者は、銀花会議から即座に除名し、監査隊に引き渡す。……私たちは一歩も引かない。正当な手段で、彼らの不当な封鎖を木端微塵に打ち砕くわよ」
私の絶対的な命令に、ガストンをはじめとする代表たちは、もはや反論の言葉を失い、深く頭を垂れるしかなかった。
彼らの心の中に、金で解決しようとした己の浅はかさへの恥辱と、正面から国家権力を論破しようとする私への、新たな次元の畏怖が刻み込まれた瞬間だった。
(さあ、無駄な妥協の道は完全に絶たれた。あとは、この二日間でどうやって王都の裏ルートを開拓するか、具体的な実務の構築よ)
私は再び流通地図へと視線を落とし、次なる指示の言葉を紡ぐための呼吸を整えた。




