シーン1:武力衝突の誘惑と、命を測る在庫目録
バサッ、と。
乾いた音を立てて、分厚い羊皮紙の束が黒檀の円卓の中央に広げられる。
ベルノが先ほど情報部隊からかき集めてきた、王都第三区画『中央倉庫』の完全な最新在庫目録と、各店舗への納入予定表だ。真新しいインクのツンとした匂いが、円卓の間に立ち込める。
外の執務フロアからは、怒涛のように動き出した職員たちの怒号と足音が、分厚いガラス越しに地鳴りのように響いてくる。しかし、この密室の中だけは、嵐の目のような重苦しい静寂が落ちている。
私は漆黒のコートの袖口を軽く引き上げ、羽ペンを右手に握る。
そして、無言のまま、羊皮紙に羅列された細かい数字の海へと視線を落とす。
(……高級化粧品、石鹸、香水、一般向けの風邪薬。これらは痛いけれど、最悪の場合、各店舗のバックヤードにある在庫で数日は凌げる。問題は、動かせない『大口の予約品』よ)
私の視線が、目録の中盤に記載された特定の項目でピタリと止まる。
羽ペンの先で、その項目を強くトントンと叩く。
「……ベルノ。王立療養院へ納入予定だった『特級回復ポーション』三千本。これは、明日の朝一で出荷する予定のロットね?」
私の低く、一切の感情を排した声に、ベルノが眼鏡のブリッジを押し上げながら頷く。
「はい。先週から徹夜で生産ラインを回し、ようやく検品を終えて中央倉庫の第一ブロックに運び込んだばかりの品です。明日の朝、療養院の重症患者病棟へ一斉に投与される手はずとなっておりました」
「北方騎士団向けの『野戦用止血軟膏』の第一期納入分、五百缶。これも同じブロックね」
「その通りです。来週から始まる北部の魔物討伐遠征に向けて、騎士団長から直接急ぎで発注を受けていた分です」
私はさらに目録を指でなぞり、一番下、利益率が最も低く設定されている項目を丸で囲む。
「それに、これ。南区の孤児院と救貧院に向けた、安価なアルコール消毒液と栄養剤のセット、五千回分。……これも、全て監査隊に差し押さえられたわね」
私の言葉が落ちるたびに、五大商会の代表たちの顔色が、青から白へ、そして土気色へと変わっていく。
「ふ、ふざけるな……っ!」
沈黙を破ったのは、食料部門のガストンだ。彼は両手で自分の頭を抱え込み、血走った目で円卓を睨みつけている。
「化粧品や香水が止まるのとは訳が違う! 療養院のポーションと騎士団の物資だぞ! 納期に一時間でも遅れれば、商会に莫大な違約金が発生するどころか、王宮から直々に契約不履行のペナルティを下される!」
「そうですわ! もし患者に死者でも出れば、全ての責任は我々五大商会に押し付けられます! 財務院はそれを分かっていて、わざと納品直前の倉庫を狙い撃ちにしたのですわ!」
マダム・セリアが、ヒステリックな甲高い声を上げて扇を振り回す。
「会長! もう裏道だの小舟だのと言っている場合ではありません! 相手が武力で来るなら、こちらも武力で対抗するしかありません!」
バルトが身を乗り出し、口角に泡を飛ばしながら叫ぶ。
「王都の地下には、我々が裏で雇っている傭兵ギルドの荒くれ者が数百人はいます! 彼らに金をばら撒き、今夜中に中央倉庫を強襲させるのです! 監査隊の包囲を力ずくで破り、せめてポーションと止血薬だけでも運び出さなければ、我々の首が飛びますぞ!」
「そうだ! 傭兵を使え! 違約金を払うくらいなら、暴動を起こしてでも在庫を取り返すんだ!」
代表たちが次々と同調し、円卓の間が危険な熱狂に包まれ始める。
彼らの目には、迫り来る違約金と信用の失墜への恐怖しかない。恐怖が彼らの理性を焼き切り、最も短絡的で、最も愚かな『暴力』という手段に手を伸ばさせようとしている。
「きゅるるるっ!」
机の端にいたルンが、代表たちの殺気立った声に反応して毛を逆立て、威嚇の声を上げる。
私は無言のまま、手に持っていた羽ペンの柄で、黒檀のテーブルをカンッ! と一度だけ強く叩く。
硬質で鋭い音が、彼らの怒号を真っ二つに切り裂く。
代表たちの動きがピタリと止まり、全員の視線が私へと集中する。
「……座りなさい」
私の静かで、氷点下まで冷え切った声が、彼らの頭から冷水を浴びせる。
「し、しかし会長! このままでは……」
「黙って座れと言っているのよ」
私がもう一度、今度は明確な殺気を込めて睨み据えると、バルトとガストンはヒッと喉の奥で音を立てて、弾かれたように椅子へと座り直す。
私は羽ペンを置き、両手で広げた目録をバンッと平手で叩く。
「あなたたち、自分が何を口走っているのか分かっているの? 財務卿直属の監査隊に傭兵をけしかける? ……それはね、ただの暴動じゃない。国家に対する明確な『反逆罪』よ」
私の言葉に、代表たちの顔からさらに血の気が引く。
「財務卿のヴァルターは、まさにそれを待っているのよ。私たちが焦って武力を行使すれば、彼は大手を振って正規軍の治安維持部隊を投入できる。そうなれば、中央倉庫の物資どころか、あなたたちの本邸も、この本部も、全て合法的に焼き払われるわ。……相手の用意した盤面に、わざわざ自分から死にに行く馬鹿がどこにいるの」
「だ、だが、それでは……患者や騎士たちはどうなるのです! 納期が守れなければ、どのみち我々は終わりだ!」
バルトが悲痛な声で訴える。
私は深く息を吸い込み、冷徹な事実を彼らに突きつける。
「いいこと? 今、私たちが一番に考えなければならないのは、違約金の計算でも、商会の利益でもない。この目録にある『命の納期』をどう守るかよ」
私は赤色のインクペンを取り出し、孤児院向けの消毒液と栄養剤の項目に、太く、力強い線を引く。
「ポーション三千本、止血薬五百缶、消毒液五千回分。……これは、ただの数字じゃない。明日、傷の痛みに苦しむ三千人の患者と、戦場に立つ五百人の騎士、そして、不衛生な環境で熱を出す五千人の子供たちの命そのものよ」
私の言葉に、円卓の間がシンと静まり返る。
前世で、品質管理のミスが直接消費者の健康被害に直結する恐怖を知っている私にとって、医療品の供給停止は、どんな経済的損失よりも重い意味を持つ。
「財務卿は、私たちがただ利益を貪るだけの『強欲な商人』だと信じ込んでいる。だから、商品を差し押さえれば私たちが利益を守るために暴発すると踏んでいるのよ。……でも、私たちは商人である前に、この王都の生活の基盤を支える責任者だわ」
私はペンを置き、真っ直ぐに彼らを見据える。
「武力は使わない。賄賂も使わない。……私たちは、商人としての『正しい手続き』と『信用』だけで、この封鎖を突破するわ」
「た、正しい手続き……? 相手は問答無用で差し押さえ命令を出しているのですよ!?」
「だからこそよ。ベルノ」
私が振り返ると、ベルノは即座に背筋を伸ばす。
「はい、会長」
「孤児院と救貧院に納入する予定だった、この消毒液と栄養剤の『正規の契約書』の原本。あれは、中央倉庫ではなく、ここの本部の金庫にあるわね?」
「はい。利益がほとんど出ない慈善事業に近い案件でしたので、会長の特別決裁として、私が直接本部の第一金庫に保管しております」
「それをすぐに用意しなさい。それと、王立療養院と交わしたポーションの納入契約書もよ」
私は目を細め、頭の中で反撃の法的根拠を組み立てていく。
「財務院が差し押さえの理由にしている『不当な価格操作と利益の独占』。……もし私たちが本当に強欲なだけの商人なら、なぜ利益の出ない孤児院向けの消毒液を、原価ギリギリの価格で五千人分も用意しているのかしら?」
私の言葉の意味に気づき、ベルノの瞳がハッと見開かれる。
「なるほど……! この契約書自体が、財務卿の掲げる『不当な利益の独占』という大義名分を根本から崩す、強力な物理的証拠になるのですね!」
「その通りよ。この契約書と、明日薬を必要としている患者たちの存在。これこそが、私たちが剣や傭兵の代わりに突きつける、最も鋭い『武器』になるわ」
私は椅子から立ち上がり、漆黒のコートの裾を翻す。
「武力で扉をこじ開けるのは三流よ。一流の商人は、相手の法と理屈を逆手にとって、相手自身の口から『扉を開けろ』と言わせるのよ。……さあ、反撃の準備を始めるわよ。王都の命は、一日たりとも止めさせない」
私の宣言に、五大商会の代表たちの目に、再び力強い光が戻り始める。
絶望とパニックに支配されていた円卓の間が、冷徹で計算し尽くされた反抗の意志によって、一つの強固な意志へとまとまっていくのを感じていた。




