シーン2:学園のヒエラルキーと小さな馬車
ギィ、という古びた板バネの軋み音を立てて、アルフェイド家の小さな馬車がゆっくりと停止する。
窓の外には、王立アークレイン学園の広大な馬車寄せが広がっている。敷き詰められているのは、王都近郊の採石場からわざわざ運ばせたという純白の石英砂利。車輪が動くたびにジャリ、ジャリと硬質な音を立て、朝の光を反射して眩しいほどに輝いている。
馬車寄せの中央には、建国の英雄を象った巨大な大理石の噴水が鎮座し、透き通った水が豊かな弧を描いて水盤へ落ちている。太陽が昇りきっているというのに、噴水の周囲には淡く発光する魔力灯がいくつも灯されている。
(あんな明るい時間帯から魔力灯を点けっぱなしにするなんて、魔力石の無駄遣いにも程があるわね。装飾用として割り切るにしても、維持費だけで中規模商会の月間利益が吹き飛ぶわ)
私は心の中で素早く原価計算を弾き出しながら、一つ小さく息を吐く。
御者台から降りたトマが、恭しい手つきで馬車の扉を開く。
「お嬢様、到着いたしましたぞ」
「ありがとう、トマ。帰りも同じ時間にお願いね」
私はトマの差し出した節くれ立った手を取らず、自力でひらりと地面へ降り立つ。長い年月をかけてすり減った木製のステップは、私が足を乗せただけで微かにたわむ。
白亜の砂利の上に降り立つと、足元からひんやりとした冷気が革靴の底を抜けて伝わってくる。私が履いているのは、学園指定の購買部で買える最も安価で実用的な焦げ茶色の革靴。ヒールの高さも規定通りで、歩きやすさだけを重視した代物だ。
身に纏う制服もまた、装飾の一切ない基本仕様。深い紺色のブレザーに、膝下丈のプリーツスカート。上位貴族の令嬢たちのように、袖口に家紋の刺繍を入れたり、襟元に希少な魔石のブローチを飾ったりするような特例許可は得ていない。
「きゅるっ」
肩から斜め掛けにした革製の鞄の中から、陽リスのルンがひょっこりと顔を出す。周囲の騒がしさに少し警戒しているのか、ピンと立った耳を細かく動かしている。
「大丈夫だよ、ルン。鞄の奥で大人しくしていてね」
私は鞄の隙間から指を差し入れ、ルンの顎の下を軽く掻いてやる。喉をぐるぐると鳴らす振動を指先に感じながら、私は学園の正門へと続く大階段へと視線を向ける。
そこはまさに、貴族社会のヒエラルキーを視覚化したような異様な空間だ。
私の馬車のすぐ隣に、地響きのような重低音を響かせて巨大な馬車が滑り込んでくる。
四頭立ての純白の駿馬。馬たちの装具には、太陽の光を受けてギラギラと輝く純銀の金具が使われている。車体は深みのある真紅に塗装され、扉には獅子と剣をあしらった侯爵家の豪奢な紋章が金箔で描かれている。車輪のスポーク一本一本にまで細やかな蔦の彫刻が施されており、一目見ただけでその異常なまでの建造費が推測できる。
(黒檀の無垢材に、防弾・防魔の多層コーティング。サスペンションにはおそらく東方大陸産のミスリル合金が使われているわね……。あの車体一台を売るだけで、南区の平民街に長屋が十軒は建つ計算になる)
溜息を堪えながら観察していると、真紅の馬車から揃いの制服を着た従者たちが次々と飛び出してくる。彼らは手早く折りたたみ式のビロードの絨毯を地面に敷き、銀色のステップを丁寧に設置する。
やがて、重厚な扉が開く。
降り立ったのは、ふわりと波打つ金糸の髪を持った侯爵令嬢だ。
制服のブレザーは彼女の体型に合わせて完全に仕立て直されており、スカートの裾からは最高級のシルクのペチコートが微かに覗いている。首元には、王都の一等地が買えるほどの大きさを誇る赤い魔石のペンダント。
彼女が砂利の上に降り立った瞬間、ふわりと、強い香りが風に乗って私の鼻腔を打つ。
(……この香りは『王女の微睡み(プリンセス・ブルーム)』の秋冬限定ラインね。ダマスクローズのトップノートに、希少な沈香をブレンドした重厚な香り。小売価格は小瓶一つで金貨三枚。でも……)
私は内心で冷徹な商品評価を下す。
(少し付ける量が多いわ。この香水は体温で揮発するミドルノートのバニラが売りなのに、これだけ大量に振りかければ香りが喧嘩して、ただの鼻を刺す刺激臭になってしまう。それに、朝の学園という閉鎖空間には強すぎる。まあ、高価なものを大量に消費することがステータスだと信じている層には、最適な商品設計にしてあるのだけれど)
侯爵令嬢が扇を片手に優雅な足取りで歩き出すと、周囲を歩いていた下位貴族の生徒たちが、まるで海が割れるようにさっと道を譲る。
その波の端にいた私の姿が、不意に彼女たちの視界に入る。
装飾過多な馬車群の中で、ぽつんと停まっているアルフェイド家の塗装の剥げた馬車。
そして、何の飾りもない地味な制服を着た私。
侯爵令嬢の取り巻きの一人――派手な縦ロールの髪をした子爵令嬢が、私を見て露骨に眉をひそめる。
「まあ、あんなみすぼらしい馬車が、よくも学園の敷地に入れるものですわね」
取り巻きの令嬢が、扇で口元を隠しながらわざとらしい声で囁く。その声は、確実に私の耳に届くように計算された音量だ。
「仕方ありませんわ。あれでも一応、騎士爵家の『ご令嬢』なのですから」
「一代限りの褒賞爵位でしょう? お父様の代が終われば平民に戻るというのに、よく上位貴族と同じ空気を吸えるものですわ」
「本当に。学園の品位が疑われますわね」
くすくす、と。
毒を含んだ嘲笑が、朝の冷たい空気を通して直接肌に突き刺さってくる。
普通なら、顔を真っ赤にして俯くか、屈辱に唇を噛み締めて逃げ出す場面だろう。
けれど、私の心にはさざ波一つ立たない。
怒りも、悲しみも、劣等感すらもない。ただ、極めて冷静な経営者としての分析だけが脳内を駆け巡っている。
(あの子爵令嬢の実家……たしか、北部の鉱山利権で失敗して、先月からうちの商会が融資している『青の商会』へ多額の借金をしているはずよね。あの縦ロールを維持するための高級整髪油も、うちの美容部門が卸している商品。私を平民だと見下しながら、私の商会が作った商品を買い、私が決めた利息を払い続けているのだから、世の中の構造というのは本当に滑稽だわ)
私は感情を完全に遮断し、目線をすっと斜め下へ落とす。
学園の「モブ」として生き残るための鉄則。それは、決して上位貴族と目を合わせず、存在感を極限まで薄め、背景と同化することだ。
私は足音を立てないようにつま先から静かに歩き出し、大階段の端――上位貴族が決して歩かない、日陰になった壁際――に沿って進み始める。
周囲の視線が、私という異物を排除し、再び自分たちの華やかな社交の話題へと戻っていくのが肌で分かる。
「ねえ、聞いた? 昨日発表された『白百合の商会』の新作石鹸、予約の枠が数時間で埋まってしまったらしいわよ」
「ええ、もちろん知っていますわ。わたくしのお父様が、なんとか三つだけ確保してくださって……」
背後から聞こえてくるその会話に、私は内心で小さくガッツポーズをする。
(よしっ。新作の『真珠肌石鹸』、予想通り初動の滑り出しは完璧ね。貴族向けの限定プレミアム感を煽る戦略が綺麗にハマった。来週あたりから平民向けの廉価版を別ブランドで流通させれば、一気に王都のシェアを七割は取れるはず)
「きゅっ……」
鞄の中で、ルンが不満げな声を漏らす。私に向けられた悪意を敏感に察知して、小さな牙を剥き出しにしようとしているのだ。
「しーっ、ルン。怒らないで。利益は信用の結果だから。彼女たちがどれだけ私を見下しても、私の作った商品は手放せない。それで十分でしょう?」
私は極小の声で囁きながら、鞄の上からルンの背中をトントンと一定のリズムで叩く。ルンは仕方ないというように丸くなり、再び鞄の底へと沈んでいく。
大階段を登り切り、重厚なオーク材で作られた学園の正面扉をくぐる。
そこから先は、朝陽の差し込む大理石の廊下。
壁には歴史ある絵画が飾られ、磨き上げられた床は鏡のように生徒たちの姿を反射している。
私は誰の視界にも入らないよう、壁の木目と一体化するような静かな足取りで、自分の教室がある旧校舎の廊下へと向かって歩き続ける。
王都の経済を掌握する商会トップの顔を完全に消し去り、誰の記憶にも残らない『空気のような令嬢』の仮面を、分厚く、完璧に被り直して。




