シーン19:差し押さえ命令、王都の物流が止まる日
「ベルノ。図面とデータを」
私の静かな、しかし絶対的な命令が下ると同時、ベルノは手元にあった分厚い革張りのバインダーを開き、羊皮紙の図面を黒檀の円卓の中央へと滑らせる。
バサリという乾いた音が響き、王都第三区画を占める『中央倉庫』の巨大な平面図が広げられる。
そこには、第一から第八までの保管ブロック、地下の耐火区画、そして荷馬車が百台同時に出入りできる巨大な搬入ヤードの配置が、精緻な線で描かれている。
「……現在、財務卿直属の監査隊が占拠しているのは、正門から続く第一ブロックと、管理棟です。彼らはそこで全ての鍵を没収し、倉庫全体の封鎖を試みているはずです」
ベルノが図面の上を細い指示棒でなぞる。
私は図面に目を落としながら、頭の中で瞬時に在庫データを引き出す。
「第一ブロックには、昨日届いたばかりの東部の精製油と、ガルド商会が扱う小麦粉の備蓄が三千袋あるはずね。管理棟が押さえられたなら、地下の耐火区画へ続く搬降機の動力も落とされている。……耐火区画にある月白根の温度管理は、魔力石の自動調整でまだ生きているわね?」
「はい。三日は持つ設定になっております。ですが……」
ベルノが言葉を濁した瞬間、円卓の間の分厚いガラス扉が、バンッ! と乱暴に開け放たれる。
「会長! 申し訳ありません、緊急の続報です!!」
飛び込んできたのは、情報伝達部門の若い局員だ。
彼のグレーの制服は汗で胸元まで濡れ、呼吸は荒く乱れている。彼は手の中に握りしめていた一枚の薄い紙片を、震える手で私に向かって差し出す。
「つい先ほど、中央倉庫の現場に潜伏している暗部から、緊急用の魔力波長による暗号通信が入りました! 監査隊の動きが判明しました!」
「読み上げなさい」
私が即座に命じると、局員は紙片を握り直し、引きつった声で叫ぶ。
「『財務卿名義の、正式な在庫差し押さえ命令が発動』……! 監査隊は目録の作成を待たず、倉庫内の全物資に対して財務院の『封印魔術符』を貼り付け始めました! さらに、倉庫を取り囲むように正規軍の一個中隊が配備され、物理的な搬出入は完全に不可能となりました!!」
――在庫の完全な差し押さえ命令。
その言葉が円卓の間に落ちた瞬間、空気が凍りつくのを通り越して、完全に死滅したかのように無音になる。
「さ、差し押さえ……。監査や調査ではなく、いきなり差し押さえだと……?」
バルトが虚ろな目で宙を見つめ、力なく呟く。
五大商会の代表たちは、もはや悲鳴を上げる気力すら失い、絶望に顔を歪めて椅子にへたり込んでいる。
(監査隊が目録も作らずに封印符を貼るなんて、異常よ。彼らは最初から私たちの商取引を正すつもりも、不正を調べるつもりもない。ただ純粋に、私たちの『心臓』を止めに来たのだわ)
私は図面から視線を上げ、虚空を見つめる。
脳裏に浮かぶのは、あの巨大な中央倉庫の内部に積み上げられた、莫大な物資の山だ。
(美容部門の『真珠肌石鹸』の初期ロット三万個。薬品部門の『特級回復ポーション』のための予備抽出液。食料部門の南区向け小麦粉と塩。日用品部門の越冬用薪と石炭……)
それらは単なる『金貨の塊』ではない。
明日、王都のパン屋がパンを焼くための粉。
明日、王立療養院で患者の傷を癒すための薬。
明日、貴族の令嬢たちが身だしなみを整えるための化粧品。
王都に住む百万の人間が、明日を生きるための『血肉』そのものだ。
「ベルノ」
私は、自分の声がこれまでになく低く、冷たく響いているのを感じる。
「……はい、会長」
「王都の各店舗と、末端の小規模倉庫にある残存在庫を計算しなさい。……物流網がこのまま完全に停止した場合、王都の棚から日用品と医療品が完全に消え去るまで、あと何日持つ?」
私の問いに、ベルノは眼鏡の位置を直し、手元の計算盤を猛烈な勢いで弾き始める。
カチカチカチッ、という硬質な音が、静まり返った部屋に焦燥感を煽るように響く。
「……現在の消費ペースと、各店舗が抱えているバックヤードの在庫を合算します。食料品は、一部の闇市に流れる分を除外して……日用品と合わせて、持って三日。いえ……市場のパニックによる買い占め(取り付け騒ぎ)が発生することを加味すれば……」
ベルノは計算盤から手を離し、血の気の引いた顔で私を見る。
「最短で二日後。二日後の昼には、王都の市場機能は完全に停止します。ポーションの供給が途絶え、小麦粉の価格は十倍に跳ね上がり、暴動が起きるでしょう」
二日。
たったの四十八時間。
それが、私たちが王都の経済を回し続けるために残されたタイムリミット。
(二日後には、私がこの数年かけて築き上げた『絶対に裏切らない信用』のシステムが、物理的な物資不足によって完全に崩壊する。患者は薬を得られず、平民はパンを買えなくなる。……財務卿は、それを分かった上で倉庫を封鎖したの?)
もしそうなら、相手は国家の治安すらも人質に取る、本物の狂人だ。
「もう……終わりだ……」
「二日で何ができるというのだ……我々の商会は、財務卿の刃の前にただ首を差し出すしかないのか……」
代表たちが、次々と絶望の言葉を口にする。
彼らの心はすでに完全に折れ、敗北を受け入れようとしている。
だが。
私は違う。
ゆっくりと、私は閉じていた目を開く。
これまで五大商会のトップたちを震え上がらせていた『冷酷な女王の笑み』は、もはや私の唇にはない。
常に余裕を持って数字を操り、相手の心理を弄んでいた私の表情から、一切の演技が削ぎ落とされる。
ただ純粋な、底知れぬ『真剣さ』。
商品開発部の主任研究員として、不良品の流通を絶対に許さなかった頃の、あの絶対零度の視線。
「……きゅ、きゅる……」
肩の上のルンが、私の身体から発せられる異様な気迫に怯え、キュッと身を縮める。
私は立ち上がり、円卓の中央に広げられた流通地図を見下ろす。
赤や青の駒が置かれた、王都の血管の図。
(二日。たった二日で、中央倉庫を介さずに、この血管の隅々にまで血液を行き渡らせる代替ルートを構築しなければならない。……正規の道が塞がれたなら、裏道を使う。荷馬車が通れないなら、小船と人足を使う)
私の脳内で、王都の地形、裏路地、地下水道、そして私たちと契約している無数の小商人たちの顔が、凄まじい速度で結びつき、新たなネットワークを形成していく。
「……泣き言を言う暇があるなら、頭を使いなさい」
私の静かな声が、絶望に沈む代表たちの鼓膜を打つ。
「え……?」
「監査隊が押さえたのは、あくまで『中央倉庫』と『正規の輸送網』だけよ。財務卿は、私たちの商会を巨大な一枚岩だと勘違いしている。だから頭を一つ潰せば、全てが止まると信じているわ」
私は地図の上に両手をつき、彼らを鋭く睨みつける。
「でも、私たちは違う。私たちの真の力は、あんな灰色の倉庫の中にあるんじゃない。この王都中に散らばっている、私たちを信じて商品を待っている数万の顧客と、私たちから品物を仕入れている数千の小商人たちの『ネットワーク』そのものよ」
私の真剣な瞳の奥に宿る強烈な光に、代表たちの顔がハッと引き上げられる。
「二日あるわ。二日あれば、王都の裏側を使って物流を再構築できる。財務卿が物理的な壁で私たちを封じ込めるつもりなら……私たちは、その壁の隙間を縫う『水』になるのよ」
私は漆黒のコートの袖を力強く捲り上げ、流通地図の上の駒を、自らの手で次々と弾き飛ばしていく。
それは、これまでの既存の流通システムを自らの手で破壊し、全く新しい、前代未聞の緊急供給網を構築するための、最初の一手だった。




