シーン18:財務卿直属の監査隊、迫り来る国家権力
ガガガガッ!
馬車の車輪が火花を散らすような勢いで石畳を滑り、商会本部の偽装された裏口の前に急停車する。
完全に停止するより早く、私は内側から扉を蹴り開け、夜の冷気の中へと飛び出す。ヒールが石畳に強く打ち付けられ、足首に鋭い痛みが走るが、そんなものを気にしている余裕はない。
「トマ、馬車を隠して! 警戒レベルは最高まで引き上げてちょうだい!」
「はっ! 御武運を、会長!」
トマの短い返事を背に受けながら、私は錆びついた金属扉に指輪を押し当てる。
ガコン、と重々しいロックが外れる音が、今の私には処刑台の刃が落ちる音のように聞こえる。
扉の向こう、商会本部の巨大な執務フロアに足を踏み入れた瞬間、私は息を呑む。
数時間前まで、完璧な秩序と静寂、そして規則正しい電子音だけが響いていた空間は、今や完全にパニックの坩堝と化していた。
「第三倉庫の帳簿、全てロックをかけろ! 外部からの物理アクセスを遮断しろ!」
「駄目です、中央倉庫との魔力通信が完全に途絶しました! 回線を切断されています!」
「南区の各店舗に緊急通達! 倉庫への納入を一時停止し、荷馬車を郊外へ迂回させろ!」
グレーの制服を着た職員たちが、血相を変えてフロアを走り回っている。
鳴り止まない魔力通信機のけたたましい警告音が、部屋中に反響して鼓膜をガンガンと叩く。紙の書類が宙を舞い、誰かのこぼしたインク瓶が床を黒く染めているが、誰もそれを気に留めない。
(……情報が遮断されている。敵はただ物理的に倉庫を封鎖しただけじゃない。私たちの通信網まで正確に把握し、ピンポイントで通信網の結節点を潰してきている)
私は立ち止まることなく、フロアを横切って奥の『円卓の間』へと向かう。
私が姿を現したことに気づいた職員たちが「会長!」と縋るような声を上げるが、私は無言で手を挙げて彼らを制する。今は一人一人の報告を聞いている時間はない。トップの情報を集約しなければ。
ガラス扉を乱暴に開け放つと、円卓の間にはすでに五大商会の代表たちと、幹部クラスの人間がひしめき合うように集まっていた。
皆、夜着の上に適当な外套を羽織っただけの乱れた格好で、顔面を蒼白にして震えている。昼間、私に怒鳴りつけられていた時の怯えとは違う。得体の知れない強大な暴力に対する、生物としての根源的な恐怖だ。
「ベルノ! 状況は!」
私が円卓の最奥の席に辿り着くより早く声を飛ばすと、大量の羊皮紙に囲まれて青ざめていたベルノが顔を上げる。彼の銀縁眼鏡はズレており、常に整っている白髪交じりの髪も乱れている。
「会長! 申し訳ありません、私の初動の遅れで……!」
「謝罪は後よ。何が起きているのか、確定している事実だけを手短に報告しなさい」
私は漆黒のコートを脱ぐこともせず、そのまま椅子に深々と腰を下ろす。机の上に両肘を突き、両手を組んでベルノを睨み据える。
「……現在から約一時間前、王都第三区画にある『中央倉庫』の正門が、武装した役人の一団によって物理的に突破されました。事前の通告や、監査院からの礼状の提示は一切ありません」
ベルノは手元の資料を握りしめ、震える声で報告を続ける。
「侵入と同時に、彼らは倉庫内に展開していた我が商会の専属警備員三十名を全員拘束。魔力通信の主幹回路を物理的に破壊し、外部への連絡を遮断しました。……その後、彼らは倉庫内の全ての保管区画の鍵を強制的に開け、目録の作成を開始しているとのことです」
「強行突破による強制監査……。王都の商業法では、重大な密輸や国家転覆の疑いがある場合を除き、事前の通告なしの深夜の立ち入りは禁じられているはずよ。どこの管轄の役人なの? 商業ギルド? それとも王都警備隊?」
私が問うと、ベルノはゴクリと重い生唾を飲み込む。
そして、その場にいる全員を絶望の淵に突き落とす、最悪の単語を口にした。
「……どちらでもありません。踏み込んできたのは、黒い軍服に銀の天秤の紋章を掲げた部隊。……『財務卿直属の監査隊』です」
――財務卿。
その言葉が落ちた瞬間、円卓の間にいた五大商会の代表たちが「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、ガタガタと歯の根を合わさずに震え始めた。
「ざ、財務卿だと……!? あの『氷の刃』と呼ばれるヴァルター・グレイス侯爵の直属部隊が、なぜ我が商会の中央倉庫に!?」
食料部門を統括するガストンが、巨体を丸めて悲鳴のような声を上げる。
「あり得ませんわ! 財務卿の直属部隊が動くということは、単なる脱税や帳簿の不備といったレベルの監査ではありません! これは、国家権力による完全な『財産没収』の意志表示ですわ!」
マダム・セリアが、顔を両手で覆いながら泣き叫ぶ。
無理もない。
財務卿ヴァルター・グレイス侯爵。
彼はこの王国において、国王に次ぐ絶大な権力を握る男だ。崩壊しかけていた国庫の赤字を、冷酷無比な徴税と、貴族・平民を問わない容赦のない資産没収によって立て直した立役者。
彼に目をつけられた商会や貴族は、過去に例外なく全財産を国庫に没収され、一族郎党が路頭に迷うか、あるいは牢獄の中で一生を終えている。
彼らは法を重んじるが、同時に法を自分たちの都合の良いように解釈し、合法的に全てを奪い尽くす『国家の略奪者』だ。
(……ヴァルター・グレイス。昼間、私を嘲笑っていたあの縦ロールの侯爵令嬢、セレスティアの父親ね)
私は唇を噛み締め、頭の中で散らばったパズルのピースを猛烈な勢いで組み上げ始める。
(なぜ彼が動いた? 私たちの銀花会議の存在は、五大商会の競争という偽装によって完全に隠蔽されているはず。彼らはただの貸倉庫だと思っている場所に、なぜ直属の武装部隊を送り込んできたの?)
「ベルノ。彼らが踏み込んできた時の『名目』は分かっているの?」
私は騒ぎ立てる代表たちを無視し、努めて冷静な声でベルノに問う。
「……現場から辛うじて逃げ延びた荷運び人の証言によれば、彼らは『五大商会による不当な価格操作、および王都の流通網の違法な独占の疑い』という名目を掲げていたとのことです」
「違法な独占……」
私は低く呟く。
(完全にバレている。彼らは、五大商会が別々の組織ではなく、背後で一つの意志――つまり『私』によって統括され、価格や流通を調整していることに気づいている。だからこそ、商業ギルドの監査ではなく、国家の経済を脅かす『独占的犯罪組織』として、財務卿自らが直接メスを入れてきたのだわ)
「終わった……もうお終いだ! 財務卿に目をつけられれば、我々の財産は全て没収され、首が飛ぶ! 逃げるしかねえ!」
薬品部門のバルトが、椅子を蹴り倒して立ち上がり、扉の方へ駆け出そうとする。
他の代表たちも、それに同調するように腰を浮かす。
「待ちなさい」
私の低く、しかし氷のように冷たく重い声が、彼らの足を床に縫い付ける。
「逃げる? どこへ逃げるの? 財務卿が動いたということは、王都の全ての門はすでに封鎖されているわ。あなたたちの個人の屋敷にも、明日には監査のメスが入る。今逃げれば、それこそ『反逆罪』の烙印を押されて、弁明の余地もなく処刑されるわよ」
「だ、だが! このままでは倉庫の商品も、我々の商会も全て奪われる! どのみち破滅だ!」
ガストンが血走った目で私を睨みつける。
「私が『待て』と言っているのよ」
私はゆっくりと立ち上がり、両手をテーブルについて彼らを見下ろす。
その瞳に、一切の動揺や恐怖は宿していない。
「敵は国家権力。相手にとって不足はないわ。……ベルノ。中央倉庫の在庫データと、彼らが踏み込んだ区画の図面を出しなさい。まだ、ゲームは終わっていないわよ」
私の絶対的な落ち着きに、パニックを起こしていた代表たちの動きがピタリと止まる。
彼らは怯えた目で私を見上げ、私が次に何を口にするのかを固唾を飲んで待っている。
(敵は、王国の経済を力でねじ伏せようとする最大の権力。……いいわ。私が築き上げた『信用』のシステムと、あなたの持つ『権力』。どちらが王都の心臓を動かすのにふさわしいか、試してみようじゃないの)
私は漆黒のコートの襟を立て、真紅のルージュを引いた唇の端を、不敵に吊り上げた。




