シーン17:夜の緊急伝書、冷え込む商会本部
自室の木製ドアを背中で静かに閉めると、食堂の暖炉の熱気が遮断され、ひんやりとした夜の空気が私を包み込む。
部屋の中は魔力灯のスイッチを入れていないため、窓から差し込む青白い月明かりだけが、質素なベッドと小さな書き物机の輪郭を薄っすらと浮かび上がらせている。
「ふう……」
私は大きく息を吐き出しながら、肩の上でうとうとしているルンを両手でそっと持ち上げる。
ルンは完全に夢の中のようで、私の手の中で無防備にお腹を見せ、ふにゃふにゃと四肢を投げ出している。その柔らかな毛玉をベッドの枕元の専用カゴへそっと移し、小さな布の毛布をかけてやる。
制服のブレザーを脱ぎ、木製のハンガーにかける。
ネクタイを緩め、ブラウスの一番上のボタンを外すと、締め付けられていた首元に冷たい夜の空気が触れ、一日の疲労がじわじわと筋肉の奥から溶け出してくるのを感じる。
(明日の錬金術の授業は……座学ね。もう絶対に発言なんかしない。一番後ろの席で、教科書を立てて完全に気配を消し去るわ。午後は商会には寄らずに、屋敷の帳簿づけでも手伝おうかしら)
そんな平穏で地味な明日を想像しながら、私は窓際へと歩み寄る。
古びた窓枠に手をかけ、少しだけガラス窓を押し開ける。
ヒュオォォ……と、王都の夜風が部屋の中に滑り込んでくる。冷たく、乾燥した空気。
眼下には、オレンジ色の魔力灯が点々と連なる王都の夜景が広がっている。遠くの方で、夜間警備にあたる騎士団の巡回馬車の鈴の音が、チリン、チリンと微かに聞こえてくる。
私が構築した物流のシステムは、この静かな夜の間も止まることなく動き続けている。
西街道からは、私の指示を受けた五十台の荷馬車が、通常ルートを外れて月影草を運ぶために夜通しで走り続けているはずだ。各工房では、明日の出荷に向けて職人たちが製品の最終チェックを行い、検品済みの木箱が次々と倉庫へと積み上げられている。
(大丈夫。全ては私の計算通りに回っている。王都の経済も、アルフェイド家の未来も)
私は月明かりに向かって、ゆっくりと目を閉じる。
完全な静寂と、確固たる自信。
それが私の心を穏やかに満たし、深い眠りへの準備を整えようとしていた。
――コツッ。
不意に、ガラス窓を硬いもので叩く音が響く。
風の音ではない。明確な意思を持った、人工的な打撃音だ。
私は目を素早く見開く。
コツッ、ココッ。
音は再び、私の目の前のガラス窓から鳴る。
視線を向けると、窓枠のすぐ外側、暗闇の中に黒い影が止まっている。
月明かりに照らし出されたその正体は、漆黒の羽を持つ一羽の鳥。魔力によって調教され、特定の波長を持つ相手にのみ手紙を届ける『魔力伝書鳥』だ。
(……伝書鳥? この時間に? それも、商会本部から直接私の私室へ?)
私の背筋を、夜風とは違う種類の冷たいものが駆け下りる。
銀花会議の通常の業務連絡は、翌日の午後に商会本部でまとめて確認することになっている。緊急の案件であっても、まずは各商会の支部長やベルノの裁量で処理され、どうしても私の決裁が必要な場合のみ、朝一番で使いの者がやってくる手はずだ。
深夜に、しかも外部からの追跡を防ぐ魔力伝書鳥を直接飛ばしてくるなど、私が商会を設立してからの数年間で、ただの一度も起きたことがない。
私は息を殺し、窓を大きく開け放つ。
バサッ、と羽音を立てて、黒い鳥が部屋の中へ滑り込んでくる。鳥は書き物机の上に着地すると、私に向かって赤い瞳を光らせ、短く一度だけ鳴く。
その右脚には、銀色の小さな金属筒がくくりつけられている。
私は震えそうになる指先を意志の力で押さえ込み、金属筒のロックを外す。
筒の中には、きつく丸められた一枚の小さな羊皮紙が入っている。
鳥は用が済んだとばかりに、再び窓から夜の闇へと飛び去っていく。
私は羊皮紙を両手で開き、月明かりの下に晒す。
そこに書かれているのは、暗号でも、遠回しな隠語でもない。
事態の異常さを物語るように、乱れた筆跡で、たった一文だけが走り書きされている。
『中央倉庫に役人が入りました』
――ドクン。
心臓が、肋骨を内側から殴りつけるような大きな音を立てる。
(中央倉庫に、役人が?)
思考が、一瞬だけ真っ白に空白化する。
中央倉庫。
それは王都の第三区画に位置する、銀花会議が保有する最大の物流拠点。五大商会の全ての製品、原材料、さらには商会の利益を管理する膨大な裏帳簿まで、全てがそこに集約されている、王都経済の心臓部だ。
そこに『役人が入った』。
(抜き打ちの査察? 違う。王都の商業組合の監査役なら、事前に私たちの息のかかった役人から必ず情報が漏れてくる。それに、通常の監査ならベルノが現場で適当な帳簿を見せて追い返せるはず。こんな伝書を飛ばしてくるわけがない)
私の脳の演算機能が、限界を超えた速度で回転を始める。
事前通告なし。内通者からの情報漏洩もなし。そして、ベルノですら対応しきれないほどの強権を持った『役人』。
それは、通常の商取引のルールを逸脱した、絶対的な上位権力の介入を意味している。
「……っ」
私は弾かれたように机の引き出しを開け、魔力灯のスイッチを叩き込む。
カチッという音と共に、部屋の中が青白い光に照らし出される。
ベッドのカゴで寝ていたルンが、突然の眩しさに「きゅぅ?」と寝ぼけた声を上げる。
私はハンガーから乱暴に制服のブレザーを引き剥がし、腕を通す。
ボタンを留める指先が、自分の意思に反して微かに震えている。
(中央倉庫の在庫がもし差し押さえられれば、王都の物流は三日で完全に停止する。特級ポーションの納入も、食料の配給も、全てが止まる。それは、商会の損失というレベルの話じゃない。患者が死に、平民が飢えるということだわ!)
「トマ! 起きて、トマ!!」
私は部屋を飛び出し、廊下に向かって声を張り上げる。
静まり返っていた屋敷の空気が、私の悲痛な叫びによってビリビリと震える。
一階から、ドタドタと慌ただしい足音が階段を駆け上がってくる。
「お嬢様!? いかがなされましたか!?」
寝巻き姿のまま、手には燭台と短剣を握りしめたトマが姿を現す。その後ろからは、剣を抜いた父、ガイウスの姿もある。
「リリア! 何があった! 賊か!?」
父が険しい顔で周囲を警戒する。
私は首を横に振る。
「違うの、お父様。トマ、今すぐ馬車を出して。最高速度で商会本部へ向かうわ。……中央倉庫が、襲撃された」
「襲撃……!? どこの愚連隊だ。私が斬り伏せてやる」
父が剣を握る手に力を込めるが、私はギリッと唇を噛み締め、絶望的な事実を口にする。
「愚連隊じゃないわ。……おそらく、国家権力よ。正面から、堂々と私たちの心臓を止めに来たのよ」
父の顔色が変わる。トマは言葉を発することなく、すぐさま踵を返して馬小屋へと走っていく。
私は自室に戻り、隠し金庫から商会主としての印章と、緊急時にのみ使用する最高権限の魔力鍵をひったくるようにして鞄に詰め込む。
(誰が? なぜこのタイミングで? 目的は私? それとも商会の利権?)
無数の疑問が頭の中で渦を巻く。
つい数十分前まで、「自分のシステムは完璧だ」「全ては計算通りに回っている」と信じて疑わなかった自分の傲慢さが、今になって刃となって私の胸を突き刺してくる。
私は漆黒のコートをひっつかみ、肩に乗ってきたルンと共に夜の廊下を駆け下りる。
「リリア! 私も行く!」
玄関で、父が外套を羽織りながら叫ぶ。
「駄目よ、お父様! お父様が動けば、アルフェイド家全体が反逆の疑いをかけられるかもしれない。ここは私とベルノたちで対処するわ!」
私は玄関の扉を蹴り開け、夜の闇へと飛び出す。
冷え切った夜風が、私の頬を容赦なく叩き据える。
外にはすでに、トマが馬車の準備を整えて待機していた。
私は馬車に飛び乗り、扉を閉める。
「トマ、出して!」
ヒヒィーン!と、馬が嘶き、車輪が激しい音を立てて砂利を蹴り上げる。
王都の石畳を、馬車は狂ったような速度で疾走していく。
私は真っ暗な車内で、手の中の小さな羊皮紙を握り潰すほどの力で握りしめる。
たった一文の緊急伝書。
それは、私が作り上げた絶対的な秩序の崩壊を告げる、死の宣告だった。
静かで穏やかなモブ令嬢の日常は、この夜を境に、完全に、そして二度と戻らない形で終わりを告げたのだ。




