シーン16:父ガイウスとの夕食、「爵位より信用を残せ」
馬車の車輪が石畳から土と砂利の混ざった地面へと移り、ガリガリという鈍い音を立てて停止する。
王都の端、平民街と下級貴族街の境界線にひっそりと建つ、アルフェイド家の屋敷に到着したのだ。屋敷というにはあまりに小さく、二階建ての木とレンガ造りの家屋は、装飾の多い上位貴族の館とは比べるべくもない。しかし、手入れの行き届いた生垣と、玄関先に吊るされた温かなオレンジ色の魔力灯が、疲れた私を優しく出迎えてくれる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。旦那様が食堂でお待ちです」
玄関の分厚い木製ドアを開けると、長年この家を切り盛りしている初老のメイド、マーサがエプロンで手を拭きながら笑顔で出迎えてくれる。
同時に、家全体を満たしている芳醇な香りが私を包み込む。バターで炒めた根菜の甘い匂いと、牛肉を赤ワインでじっくりと煮込んだ重厚で食欲をそそる香り。
「ただいま、マーサ。すごくいい匂いね。お腹が空きすぎて倒れそう」
「ふふ、今日は旦那様のご希望で、トロトロになるまで煮込んだビーフシチューでございますよ。さあ、冷めないうちにどうぞ」
私は鞄から飛び出してきたルンを抱き上げながら、急ぎ足で食堂へと向かう。
食堂の暖炉ではパチパチと薪が爆ぜ、赤々と燃える炎が部屋全体をぽかぽかと温めている。質素なオーク材の長テーブルの向こう側に、一人の大柄な男性が座り、湯気を立てるシチューの皿を前にして私を待っている。
「遅かったな、リリア。また商会で厄介事でも抱え込んでいたのか?」
深く、よく響く声。
私の父、ガイウス・アルフェイドだ。
彼は元王宮の近衛騎士であり、数々の武勲によって『一代限りの騎士爵』を賜った人物。すでに現役を退いているものの、幅の広い肩と分厚い胸板、そしてピンと伸びた背筋は、今も騎士としての威厳を保っている。しかし、その顔に刻まれた深いシワと、目尻の柔らかな笑みは、ただの『娘を溺愛する優しい父親』のそれだ。
「ただいま、お父様。厄介事っていうか……ちょっと南街道の流通ルートの調整をしてきただけよ。それより、先に食べていてよかったのに」
私は父の向かいの席に座り、マーサが運んできた熱々のシチューと、籠いっぱいに盛られた焼きたての黒パンを受け取る。
ルンは自分の指定席である小さな専用クッションに丸くなり、マーサからもらった木の実を前足で器用に割り始めている。
「娘と一緒に食べる夕飯が、私の毎日の最大の楽しみだからな。冷めたシチューを一人ですする老後なんてごめんだ」
父は豪快に笑いながら、木製のスプーンでシチューを掬う。
私もスプーンを手に取り、琥珀色に輝くソースごと大きな肉の塊を口に運ぶ。
舌の上でホロリと崩れる牛肉の旨味と、赤ワインの酸味、そして玉ねぎの甘みが口いっぱいに広がる。商会での神経をすり減らす数字の戦いから解放され、冷え切った身体に熱いシチューが染み渡っていく。
「美味しい……。生き返るわ」
「そうだろう、そうだろう。……で? 学園の方では何かあったか?」
父が黒パンをちぎってシチューに浸しながら、ふと視線を上げて尋ねてくる。
私はスプーンを持つ手をピタリと止め、昼間の大食堂での出来事――王太子エドワード殿下が真横に座り、私が開発した『野戦用止血軟膏』について熱弁を振るってしまったこと――を脳裏にフラッシュバックさせる。
(……言えない。お父様にそんなことを言ったら、「ついに我が家から王族の目に留まる者が!」なんて勘違いして大騒ぎになるか、逆に「王家に目をつけられるなんて危険すぎる!」と心配性のスイッチが入るかの二択だわ)
「えっと……特には。いつも通り、誰の記憶にも残らない『空気』として過ごしてきたわ。あ、でも、錬金術の授業で、お父様の書斎にあった本の内容を少し拝借して答えたら、バルガス先生に褒められちゃった」
私はあくまで些細な出来事として、半分だけ真実を混ぜてごまかす。
「ほう! あの頑固なバルガスに褒められるとは。私の書斎にある兵法書か何かが役に立ったのか?」
「ええ、まあ、そんなところ。……でも、周りの上位貴族の令嬢たちには、少し睨まれちゃったけれどね。相変わらず、『一代限りの武功爵の分際で』って、コソコソ言われているわ」
私がシチューの皿を見つめたまま、ポツリとそう漏らすと、食堂の空気が微かに変わる。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。
アルフェイド家が持つ『騎士爵』は、世襲が許されない。父が死ねば、この家はただの平民へと戻る。だからこそ、歴史と血統を重んじる上位貴族たちからは、「成金」「成り上がり」「平民の分際」と常に蔑まれ続けている。
父が若い頃、魔物の大群から命懸けで王族を守り抜いて得た、誇り高き勲章であるはずの爵位。それを泥で汚すように笑う奴らを、私は内心で絶対に許していない。
だからこそ、私は商会で莫大な富と権力を裏から築き、彼らの生活を私が握ることで、見返してやりたいとどこかで思っているのだ。
「……すまないな、リリア。お前に肩身の狭い思いをさせて。私がもっと高い爵位を得ていれば、お前を正真正銘の貴族の令嬢として……」
父が太い眉を下げ、剣ダコだらけの分厚い手で自分の額を押さえる。
「違うわ、お父様! 私はお父様を誇りに思っている。お父様が命懸けで守ったこの家を、絶対に誰にも見下させたりしない。……私が、この手で、アルフェイド家を王都で一番力のある家にする。誰も逆らえないくらいの……」
私がスプーンを強く握りしめ、つい感情的になって声を荒らげた瞬間。
「リリア」
父の低く、しかし厳格な声が私の言葉を遮る。
彼はスプーンを置き、私の目を真っ直ぐに見据える。その眼差しは、近衛騎士として王宮の最前線に立っていた頃の、鋭くも深い光を宿している。
「力で相手をねじ伏せても、見下す奴はいなくならない。彼らはただ、力に怯えて口を閉ざすだけだ。それは『尊敬』ではない」
父はゆっくりと手を伸ばし、テーブルの上に置かれた私の手を、その分厚く温かい手でそっと包み込む。
「爵位は消える。王から賜った称号も、権力も、いつかは必ず失われる。……でもな、お前が積み重ねている『信用』は残る」
「……信用」
「ああ。お前が商会でやっていることは、ただ金を稼いで力を持つことじゃないはずだ。お前は、質の悪いポーションで苦しむ騎士たちを救い、王都の物価を安定させようとしている。……それがどれだけ多くの平民や下級兵士の命を救っているか、私は知っている」
父の言葉に、私の目頭が熱くなる。
商会の五大代表たちには「品質至上主義だ」「物流の支配だ」と冷酷に言い放っているが、その根底にあるのは、少しでもこの世界の不便さや理不尽さを、私の知識で改善したいという思いだ。父は、私がひた隠しにしているその本質を、誰よりも正確に見抜いている。
「力や金で得た地位は、もっと大きな力や金が現れれば簡単に奪われる。だが、誰かのために正しく働き、約束を守り、真摯に積み上げた信用だけは、誰にも奪えない。……リリア、爵位より信用を残せ。それが、アルフェイド家がお前に残せる、唯一で最大の財産だ」
父の深く温かい声が、暖炉の熱と一緒に私の胸の奥深くまで染み込んでいく。
私は、力で上位貴族を屈服させようとしていた自分の浅はかさを恥じ、ゆっくりと、しかし力強く頷く。
「……うん。分かったわ、お父様。私、絶対に間違えない。力じゃなくて、誰もが私を信じてくれるような、そんな商売を続けていく」
私がそう言うと、父はパッと顔をほころばせ、いつもの豪快な笑い声を上げる。
「よし! それでこそ私の自慢の娘だ! さあ、冷める前にシチューを食べてしまおう。マーサのシチューは世界一だからな!」
「ふふっ、本当にね。お父様も、あまりパンばかり食べずに野菜も食べてね」
張り詰めていた空気が緩み、再び食堂に穏やかな夕食の時間が戻ってくる。
父とのくだらない冗談や、ルンが胡桃を割るのに失敗して転がる様子に声を上げて笑う。
(そうだ。私は、この温かい時間と、父の誇りを守るために戦っているんだわ。上位貴族の嘲笑なんて、気にする価値もない。私は私のやり方で、王都の人々に『信用』という名の根を張っていく)
私はシチューの最後の一口を飲み込み、満たされたお腹と心で深く息を吐き出す。
今日は一日、本当に色々なことがあった。錬金術の授業での失態、王太子の接触、商会での緊迫した会議と物流の再構築。
だが、家に戻り、父の言葉を聞いたことで、私の心は完全にリセットされ、明日への活力が湧き上がってくるのを感じていた。
「ごちそうさまでした。お父様、私、部屋に戻って明日の予習をするわね」
「ああ、無理はするなよ。お休み、リリア」
私は席を立ち、ルンを肩に乗せて自室へと向かう階段を上り始める。
木製の階段がギシギシと鳴る音さえも、今の私には心地よい子守唄のように聞こえていた。
この時の私は、まだ信じていた。
私の商会が築き上げている強固なシステムと、私が守ろうとしている『信用』の壁があれば、どんな危機も乗り越えられると。
王都の経済は完全に私の手の中にあり、明日もまた、計算通りに世界は回っていくのだと。
――その絶対の自信が、たった一通の『伝書』によって、根底から破壊されることになるとは夢にも思わずに。




