シーン13:色落ちしない口紅と、沸き立つ女性社員
薬品開発の無機質なテストルームを後にし、私たちは隣接する美容部門の開発ラボへと足を踏み入れる。
分厚い防音扉を押し開けた瞬間、空気が劇的に一変する。
先ほどの血と消毒薬の冷たい匂いは完全に消え去り、代わりに濃厚なダマスクローズの精油、甘いミツロウが溶ける匂い、そして微かな真珠パウダーの香りが全身をふわりと包み込む。
室内の温度も、薬草の鮮度を保つための低温から、化粧品の乳化を促すための少し高めで快適な室温へと調整されている。
「ああっ、会長! お待ちしておりました!」
部屋の中央に集まっていた十数名の女性研究員や職人たちが、私の姿を認めるなり、弾かれたように駆け寄ってくる。
彼女たちは皆、白い作業用エプロンを身につけ、手には小さな筆やパレット、色見本を握りしめている。その瞳は、新しいおもちゃを与えられた子供のようにキラキラと熱狂に輝いている。
「きゅんっ!」
肩の上のルンが、華やかな香りと女性たちの甲高い声に反応し、嬉しそうに尻尾を振る。先ほどの血の匂いに怯えていた様子はすっかり消え去り、エプロンのポケットからお菓子をもらおうと身を乗り出している。
「ルン、お仕事中だからおねだりは駄目よ」
私がルンの鼻先を指で軽く弾くと、女性社員たちの間から「可愛い」というため息が漏れる。だが、すぐに彼女たちの顔は真剣な『職人』のものへと切り替わる。
「会長、ついに完成いたしました! 先週ご指摘いただいた、油分の分離問題と定着率の低下を完全に克服した、『真紅の誘惑』の次期改良型の最終試作品です!」
美容部門の開発主任を務める若い女性――クロエが、興奮で頬を上気させながら、銀のトレイを私の目の前に差し出す。
トレイの上に乗っているのは、漆黒の美しい細工筒に収められた一本のルージュだ。
「見せてもらうわ。……クロエ、あなたが直接試してみて」
私が顎で促すと、クロエは緊張した面持ちで頷き、手鏡を覗き込みながら自らの唇にルージュを滑らせる。
純度の高い深紅の色素が、滑らかな蜜蝋のベースに乗って、クロエの唇を鮮やかに彩っていく。ひと塗りするだけで、まるで極上のベルベットのような艶と深い発色が生まれる。
「……発色と伸びの良さは、前のバージョンより格段に上がっているわね。色素の粉砕工程に、提案した通りの魔力振動を導入したのね?」
「はい! 色素の粒子を従来の十分の一まで細かくすることで、唇の微細なシワの奥まで均一に色が乗るようになりました!」
クロエがルージュを塗り終え、誇らしげに胸を張る。
周囲の女性社員たちが、ゴクリと固唾を飲んで次の工程を見守っている。
クロエは傍らのテーブルから、一切の汚れがない純白のシルクのハンカチを手に取る。
「では、定着テストを行います」
彼女はそう宣言し、真紅に染まった自分の唇に、純白のシルクを力強く押し当てる。
ぎゅっと、数秒間圧力をかける。通常の口紅であれば、この時点でハンカチにはべったりと赤いキスマークが転写され、唇の色は無惨に剥げ落ちてしまうはずだ。
クロエがゆっくりとハンカチを離す。
純白のシルクには、ただの一滴も、ほんの僅かな赤い染みすらも付着していない。
そして、クロエの唇には、塗った直後と全く変わらない、息を呑むほどに美しい真紅が完璧に定着している。
「おおおおっ!!」
「すごい! 本当に全く色落ちしていません!」
「これで、夜会の途中で何度も化粧室に駆け込んでお化粧直しをする必要がなくなりますわ!」
「グラスに口をつけても跡が残らないなんて、まさに革命です!」
ラボの中が、割れんばかりの女性社員たちの歓声と拍手に包まれる。
背後に控えていた『白百合の商会』の代表、マダム・セリアも、扇を落としそうな勢いで身を乗り出している。
「す、素晴らしい……! 会長、これほどの定着力を持つルージュは、我が王国の歴史上存在しませんわ! これを市場に出せば、貴族の令嬢たちはこぞって金貨を積み上げて買い求めます! すぐに量産体制の構築を……!」
セリアが歓喜の声を上げる。
女性社員たちも、私の口から「よくやった」という最大級の賛辞が飛び出すのを、今か今かと待ち構えている。
だが。
私は拍手もせず、表情一つ崩さない。
歓喜に沸く室内の空気を冷水で凍らせるように、私はスッとクロエの目の前まで歩み寄り、彼女の顎を指先で軽く持ち上げる。
「え……か、会長?」
クロエが戸惑いの声を漏らす。
私は目を細め、至近距離で彼女の真紅の唇を徹底的に観察する。
表面の光の反射角。微細な皮膚の引きつり。定着剤として使用した揮発性オイルが揮発した後に残る、極薄の皮膜の構造。
私はクロエの顎から手を離し、冷徹な声で告げる。
「定着率九十九パーセント。確かに、服やグラスへの色移りを見事に防いでいるわ。……でも、これでは『失敗作』よ。即刻、やり直しなさい」
ピシャリと放たれた私の言葉に、ラボの時間が止まったかのような静寂が落ちる。
クロエの目から、すっと光が消える。
「し、失敗作……? なぜでしょうか。色落ちしないという会長の絶対条件は、完全にクリアしているはずです……!」
クロエが悲痛な声で問い返してくる。
私はため息をつき、テーブルの上に置かれていた成分表の羊皮紙を手に取る。
「確かに色は落ちないわ。でも、唇の『水分』まで一緒に落としてどうするの?」
「水分……?」
「鏡をよく見なさい、クロエ。あなたの唇の縦ジワが、ルージュを塗る前より深くなっているのが分からない? 色を定着させるために配合した揮発性の魔力抽出油の比率が高すぎるのよ。オイルが空中に揮発する時、唇が本来持っている水分まで一緒に奪い去ってしまっているわ」
私は手元の成分表の数字をペンで弾くように指し示す。
「今はまだ塗った直後だから気にならないかもしれない。でも、これを塗った貴族の令嬢たちが、乾燥した夜会のホールで三時間も四時間も談笑を続けたらどうなるかしら? 唇の皮が剥け、ガサガサにひび割れてしまうわ」
女性社員たちが、ハッとして一斉に自分の唇を触る。
「私たちは『美しさ』を売る商人よ。その場限りの見栄えのために、お客様の肌をボロボロにするような商品を作るのは、ただの詐欺師のやることだわ。……商品を落とした後の素顔まで美しく保ててこそ、初めて一流の化粧品と呼べるのよ」
私の指摘に、クロエは顔を真っ赤にして俯く。
マダム・セリアも、先ほどの浮かれた態度を恥じるように、扇で口元を隠して小さくなっている。
「揮発性オイルの配合比率を、現在の十七パーセントから十二パーセントまで下げなさい。その分、保湿成分である東方産の椿油と、蜂蜜由来の極小セラミドを増量すること」
私は頭の中の原価計算と成分の化学式を瞬時に組み替え、具体的な改良点を矢継ぎ早に指示していく。
「ですが会長、揮発油の比率を下げれば、定着率は間違いなく九十五パーセント程度まで落ちてしまいます。強くこすれば、僅かに色移りする可能性が……」
クロエが研究者としての懸念を口にする。
私は漆黒のコートのポケットに両手を突っ込み、彼女を真っ直ぐに見据える。
「構わないわ。定着率が九十五パーセントに落ちても、お客様の唇の健康を守る方が一万倍重要よ。それに『絶対に落ちないルージュ』より、『唇を極限まで労りつつ、九十五パーセントの確率で美しさを保つ魔法のルージュ』の方が、長期的なリピート購入につながるわ」
私は言葉を区切り、ラボにいる全員の顔を見回す。
「いいこと? 私たちの商会が売っているのは、単なる赤い油の塊じゃない。お客様が夜会で自信を持って笑える『時間』と、翌朝鏡を見た時にも後悔しない『安心感』よ。その本質を絶対に見失わないこと」
クロエの瞳に、先ほどの単純な熱狂とは違う、プロフェッショナルとしての深い尊敬と理解の光が灯る。
彼女は深く、直角に腰を折り曲げる。
「……申し訳ありませんでした! 私たち、目の前の定着力という数字にばかり囚われておりました。すぐにご指示通りの配合で再計算を行い、明朝までに新たな試作品を提出いたします!」
「ええ、期待しているわ。あなたたちの技術力なら、必ず最高のバランスを見つけ出せるはずよ」
私がふっと柔らかい笑みを浮かべると、ラボの空気が再び熱を帯びた活気へと反転する。
女性社員たちはすぐさま自分の作業台へと戻り、乳化器と計量計の前に陣取って猛烈な勢いで再調整を始めている。
(……これでよし。ポーションで軍需を押さえ、化粧品で貴族の社交界を押さえる。どちらも徹底した品質至上主義を貫くことで、他商会が何百年かかっても追いつけない『信用』の障壁を築き上げる)
私は満足げに頷き、ルンを肩に乗せたままラボの出口へと向かう。
背後で縮こまっている五大商会の代表たちを振り返り、私は冷たく言い放つ。
「さて。現場の空気を十分に味わったところで、そろそろ本題に入りましょうか。円卓の間へ戻るわよ。……王都の全物流網に関する、次期支配計画の策定を始めるわ」
私の言葉に、大商人たちがビクッと体を震わせ、慌てて私の後を追いかけてくる。
王都の夕闇が完全に夜の帳へと切り替わる中、私というモブ令嬢の、本当の意味での『商売』が幕を開けようとしていた。




