シーン12:規格外のポーションと、驚愕する騎士たち
「除塵と滅菌の魔方陣、起動します」
ベルノの静かな声とともに、テストルームへ続く前室の空間が淡い青色の光に包まれる。
私は目を閉じ、微細な魔力の風が漆黒のコートや髪の表面から目に見えない埃や菌を弾き飛ばしていく感覚を肌で味わう。鼻腔をくすぐるのは、特殊な薬草を焚き締めたような、病院の消毒液にも似た極めて清潔で冷たい匂いだ。
背後に立つ五大商会の代表たちは、この過剰とも言える衛生管理の儀式にまだ慣れていないのか、落ち着かない様子で身を縮めている。
(魔法という便利な力があるのに、どうしてそれを『洗浄』や『滅菌』といった基礎的な環境構築に使おうとしないのかしら。無菌状態の確保こそが、薬品開発の第一歩だというのに)
光が収まると同時に、分厚いガラス扉が音もなくスライドする。
足を踏み入れた開発部のテストルームは、先ほどの熱気に満ちた執務フロアとは対極の、徹底して無機質で静謐な空間だ。
壁と床は継ぎ目のない純白の魔力樹脂でコーティングされ、室内は一年中摂氏二十度に保たれている。
しかし、その無菌の空間に、今は場違いなほど生々しい『鉄の匂い』と『血の匂い』が充満している。
「お待ちしておりました、会長」
部屋の中央、診察用の白いベッドの横に立っていた数名の屈強な男たちが、私を見るなり一斉に踵を鳴らして敬礼する。
彼らは王都の防衛を担う正規の騎士団員たち。非番を利用し、特別報酬と引き換えに我が商会の新薬テストに極秘で協力してくれている者たちだ。
「ご苦労様。……それで、今日の怪我の具合はどうかしら」
私が歩み寄ると、ベッドの上に横たわっていた若い隊員が、苦痛に顔を歪めながらも身を起こそうとする。
「そのまま寝ていなさい。無理はしなくていいわ」
私は手で彼を制し、傷口を覗き込む。
彼の右太ももには、分厚い革のズボンごと肉を深く切り裂かれた痛々しい裂傷が口を開いている。王都近郊の街道沿いで魔物――おそらく大型の剣牙狼あたりと交戦したのだろう。
傷口からはドクドクと赤黒い血が溢れ出し、白いシーツを無惨な赤に染め上げている。男の額には脂汗が浮かび、荒い呼吸を繰り返している。
「魔物の爪による裂傷ですね。応急処置として縛帯で止血はしましたが、出血量が多く、早急に傷を塞ぐ必要があります」
付き添いの分隊長らしき男が、切迫した声で状況を報告する。
「従来の中級ポーションを使えば、肉が癒着するまでに最低でも半日は激痛に耐えねばならず、数日間は高熱にうなされることになります。ですから、こちらの商会が開発中だという『新型』を試させていただけないかと」
分隊長の言葉に、背後の商会代表たちがゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえる。
従来品で数日かかる重傷。それを一瞬で治すなど、本当に可能なのかと彼らも半信半疑なのだ。
「きゅぅ……」
私の肩に乗っていたルンが、むせ返るような血の匂いに怯え、私の首筋に顔をうずめて震える。
「大丈夫よ、ルン。すぐに血の匂いは消えるから」
私はルンの背中を指先でそっと撫でて安心させると、白衣を着た開発部の主任研究員に向けて顎で合図を送る。
研究員は無言で頷き、銀色のトレイに乗せられた一本の小瓶を私の手へと手渡す。
(……さあ、私が前世の化学知識と品質管理の粋を集めて作り上げた、次世代の『標準』を見せてあげるわ)
私が手にした小瓶。
それは朝の錬金術の授業でバルガス先生が自慢げに見せびらかしていた、あの泥水のように濁った深緑色の液体とは全く違う。
純度の高いクリスタルガラスに包まれているのは、まるで春の陽光を透かした泉の水のような、一切の不純物を持たない透明な淡い青色の液体だ。
粘度はほとんどなく、瓶を揺らすとサラサラと軽やかな音を立てて波打つ。
「……それが、回復薬? まるでただの綺麗な水にしか見えませんが……」
分隊長が、疑念の目を向ける。
無理もない。彼らの常識では、ポーションとは『濃い緑色で、ドロドロとしていて、とてつもなく苦くて臭いもの』なのだから。
「ただの水かどうか、あなたの部下の身体で直接証明してあげるわ」
私は小瓶のコルク栓を抜く。
途端に、ほのかな甘い香りが部屋の中に広がる。薬草特有の青臭さや、魔力石の焦げたような匂いは一切ない。柑橘系の果実を絞ったような、爽やかで口当たりの良い香りだ。
私はベッドで苦しむ若い隊員の口元へ、小瓶を寄せる。
「これを、一気に飲み干しなさい」
隊員は血の気を失った青白い顔で私を見つめ、コクンと一つ頷いてから、震える手で小瓶を受け取る。
彼は覚悟を決めたように目を閉じ、一息にその淡い青色の液体を喉の奥へと流し込んだ。
「……っ!?」
飲み干した瞬間、若い隊員の目が大きく見開かれる。
従来のポーションを飲んだ時に必ず襲い来る、胃袋を掻き回されるような吐き気や、舌が痺れるような苦味が全くないのだ。むしろ、冷たい果実水を飲んだような爽快感すらあるのだろう。
だが、本当の驚きはそこからだ。
「な、なんだこれは……熱い……いや、傷口が、熱いっ!」
隊員が自分の右太ももを凝視して叫ぶ。
私も、分隊長も、そして背後の商会代表たちも、全員の視線がその傷口へと釘付けになる。
映像の早送りのような光景が、そこにあった。
ぱっくりと開いていた赤黒い肉の裂け目が、まるで生き物のようにうごめき始めているのだ。
血の奔流がピタリと止まる。
そして、切断された筋繊維が目にも留まらぬ速さで互いに結合し合い、毛細血管が網の目のように再構築されていく。
シュゥゥゥ……という、微かな蒸発音のような音が室内に響く。
それは、純度百パーセントで抽出された『月白根』の細胞賦活成分が、血肉と爆発的に反応し、超高速で細胞分裂を促している音だ。
温度管理を徹底し、不純物を完全に取り除いたことで、有効成分が体内に吸収されるまでのロスが限りなくゼロに近づいている。
「おおお……肉が……傷が、塞がっていく……!?」
バルトが目をひん剥き、信じられないものを見るように後ずさりをする。
数秒。
たった数秒の出来事だった。
さっきまで太ももの骨が見えるほどに深く抉れていた傷口が、完全に塞がり、その上に薄桃色の真新しい皮膚がピンと張られている。
傷跡はおろか、かさぶた一つ残っていない。
「嘘だろう……」
分隊長が膝から崩れ落ちそうになりながら、部下の太ももに触れる。
「痛みは? 痺れはないか!? 筋肉に違和感は!?」
若い隊員は、自分の太ももを信じられないというように両手でペタペタと触り、やがてベッドから弾かれたように立ち上がる。
彼はその場で何度か軽く跳躍し、屈伸を繰り返す。
裂けていたはずの右足に全体重を乗せても、顔をしかめる様子すらない。
「あ、ありません……! 全く、痛くない! むしろ、怪我をする前より身体が軽いような気がします!」
隊員の歓喜の声が、無菌のテストルームに反響する。
「信じられん……たったの一口。しかも数秒で、あれほどの重傷が完全に消え去るなど……!」
分隊長はワナワナと震えながら、私に向かって深々と、床に膝をつくほどの最敬礼を行う。
「会長! この奇跡の霊薬……いや、この『神の雫』は、一体いつから市場に出回るのですか!? これが正式に配備されれば、魔物討伐での部隊の生存率は劇的に跳ね上がります! 騎士団は、いくら予算を積んででもこれを買い求めるはずです!」
(奇跡でも神でもないわ。ただの『科学』と『品質管理』の産物よ)
私は内心で冷ややかにツッコミを入れながらも、外向きの絶対的な女王の顔を崩さない。
「市場への投入は、来月の第一週を予定しているわ。名称は『特級回復ポーション・クリア』。価格は従来の中級ポーションの三倍に設定するつもりよ」
「さんば……!? いや、当然です! 三倍どころか、十倍出しても安い! この即効性と、何より『飲みやすさ』。戦場で負傷した兵士が、苦痛なく確実に飲み込めるというのは、何事にも代えがたい利点です!」
興奮冷めやらぬ騎士たちを横目に、私は背後に控える五大商会の代表たちへと振り返る。
彼らは全員、顎が外れそうなほど口を開け、幽霊でも見たような顔で私を見つめていた。
「……どうかしら、バルト。私がなぜ、月白根の原価上昇を数パーセントでも許さないと言ったか、これで理解できた?」
私の言葉に、薬品部門トップのバルトがビクンと肩を跳ねさせる。
「こ、これほどの効力を持つポーション……。従来品など、誰も見向きもしなくなります。市場を完全に……いや、王国の医療と軍需そのものを、我が商会が独占できる……!」
「その通りよ。このポーションが騎士団の標準装備に指定されれば、王国軍の軍事予算の半分が私たちの商会に流れ込んでくることになる」
私は革靴のヒールで床をコツンと叩き、彼らを冷徹に見据える。
「だけど、忘れないで。軍が依存するのは、この『圧倒的な品質』よ。もし、仕入れを怠って生産が遅れたり、不純物が混ざって数秒で治る傷が数分かかったりすれば……その時、軍の刃は敵ではなく、私たち商会に向かって振り下ろされることになるわ」
代表たちの顔に、利益への強烈な欲望と、失敗した時の底知れぬ恐怖が同時に浮かび上がる。
私は彼らを完全に掌握した手応えを感じながら、ふっと小さく微笑む。
「……だからこそ、私たちは完璧でなければならないの。利益は、私たちが提供する完璧な信用の『おまけ』に過ぎない。分かったわね?」
「は、ははぁっ!! 肝に銘じます!!」
大商人たちが、騎士たちと同じように深く頭を下げる。
部屋に満ちていた血の匂いは、いつの間にか完全に消え去り、代わりに私が開けたポーションの甘い柑橘の香りが、この部屋の空気を完全に支配していた。
(これで、軍需市場への布石は打てた。あとは量産体制の微調整と、王宮への政治的なアプローチね)
私は肩の上のルンを撫でながら、次なる一手へとすでに思考を切り替えていた。




