9.未亡人の恋
スウィンデル家の応接室は、かつての栄華をかすかに残すのみで、がらんとしていた。目ぼしい家具はほとんど売り払われたのだろう、足音が妙に響く。その寂しい空間の壁に、色あせた金縁の額縁がぽつんと掛けられていた。描かれているのは、折り襟の衣服をまとったいかにも古風な男性の横顔だ。
「これ……ですか」
(あら。思っていたより、ずっとみすぼらしいのね……)
アヴァリスは失望を隠しきれず、扇子で口元を覆いながら絵を見上げた。サブリナが以前言っていたとおり、表面のニスは黄色く変色し、ひび割れが目立つ。どう見ても、歴史的な傑作には到底見えない代物だった。
期待していた分だけ、落胆も大きい。アヴァリスは扇子の陰で、密かに唇を噛んだ。
その横で、父親のギルバートがハンカチを両手で握りしめ、今にも震え出しそうな声で語りはじめた。
「院長様、ブラック伯爵……。このようなお恥ずかしい姿をお見せして、誠に申し訳ありません。これは我が家の四代前の当主の肖像画だと父から聞いております。いかに家が傾き、困窮しようとも、これだけは手放すまいと誓っておりました。私の代で、我が家の魂とも言えるこれを失うことになるなど、先祖に申し訳が立たない……」
ギルバートは美しく整った顔を覆い、本当に涙を流して肩を震わせた。その横ではサブリナが、気まずそうに、そしてひどく心配そうな表情で父親の背中にそっと手を添えている。俯いたその顔は、アヴァリスの位置からはよく見えなかった。
「お父様、もうそれ以上は仰らないでください。高貴な皆様にご迷惑をおかけするくらいなら、私たちは明日からのパンがなくても耐えられますわ。どうぞ、このお話はなかったことに」
「サブリナ、しかしそれではお前やシドニーがひもじい思いをするのだよ……!」
二人の涙ながらの悲痛なやり取りに、部屋の空気がしんと重くなる。案内人であるブラック伯爵は、しばし黙って絵を見つめていた。永遠にも思える数秒の沈黙の後、静かに首を振る。
「ギルバートさん、心中お察しする。だが、美術の目利きとして誠実にお伝えせねばならない。残念ながらこの絵には、市場を動かすような芸術的価値が見当たらないのだ。私の力を持ってしても、通常の市場で高値の売却を成立させるのは難しいと言わざるを得ない」
(ほらご覧なさい、やっぱり価値のないゴミじゃない。サブリナが頑なに拒んでいたから期待したけれど、私の勘違いだったかしら。こんなものに私のお金を出すなんて馬鹿げているわ。早く帰ってワインでも飲みたいわね)
アヴァリスは扇子を閉じ、暇の挨拶をどう切り出そうかと算段を始めた。ちょうどその時。
それまで静かに佇んでいたヨハンナ夫人が、小さく息を呑む音がした。
振り返ると、夫人は絵に向かって一歩、また一歩と歩み寄っている。その瞳は、まるで熱に浮かされたように潤んでいた。
「まあ……なんて、なんて心に響く美しい家族愛かしら」
「ヨハンナ様?」
アヴァリスが眉をひそめる間もなく、ヨハンナ夫人はギルバートのもとへ駆け寄り、その手をそっと両手で包み込んだ。
「ギルバート様、あなたのそのお身内を想う尊い涙、そしてご先祖を敬う誠実なお心に、私はひどく胸を打たれましたわ」
一拍、間があった。夫人は大きく息を吸い込む。アヴァリスの背筋に、なんとも嫌な予感が這い上がった。
「私、決めました。この肖像画、我が家に残された夫の遺産の中から――金貨千枚で買い取りいたします」
世界の音という音が消え失せた。
「……はぁぁ?」
アヴァリスの口から、聖職者らしからぬ声が漏れた。金貨千枚。それは、この街の一等地の邸宅が、それも豪邸が買えるほどの、途方もない金額だ。頭の中で、その数字が何度も何度も反響する。
「ヨ、ヨハンナ様? 正気ですか?」
アヴァリスは我に返り、慌てて未亡人の袖を引いた。指先が、自分でも分かるほど震えている。
「このような、どこにでもある古ぼけた肖像画に金貨千枚だなんて、いくらお金の使い道に困っているからといって、施しが過ぎますわ! 落ち着きなさい!」
「いいえ、院長様。お金は使い道があってこそ、神の前で価値が生まれるのです」
ヨハンナ夫人は揺るがぬ口調できっぱり言い切ると、ギルバートに向き直り、うっとりと目を細めた。
「この素晴らしい方々の力になれるなら、私の夫も天国でお許しくださるはずだわ」
その眼差しは、どう見ても、没落した美男子に完全に絆されてしまっている――ように見えた。
アヴァリスの喉の奥から苦いものがせり上がってくる。目の前で、自分よりも先に、しかも自分よりずっと気前よく大金が動こうとしている。それも、あんな二束三文の絵に。
(待って。待ちなさい。この絵に、そこまでの価値なんて――)
一瞬、頭の隅で警鐘が鳴った。ブラック伯爵は「価値がない」と断言したはずだ。なのに、なぜヨハンナ夫人はこうも迷いなく大金を積もうとするのか。
だがその疑問は、すぐさま焦りに塗りつぶされた。もしこの絵に本当に何か特別な価値があるのだとしたら。それを、赤の他人の未亡人に、みすみす奪われてしまうことになる。
アヴァリスの胸の内で、すさまじい焦りと、どす黒い独占欲がふつふつと沸き立ち始めた。指先が、扇子の骨をぎしりと軋ませる。
(渡すものですか。この絵は、このアヴァリスが――)




