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10.幻の青を剥がす

ヨハンナ夫人の突拍子もない提案に、ギルバートは驚いたように目を見張った。が、すぐにまた深くうつむき、絞り出すような声で首を振った。


「ヨハンナ夫人、そのお気持ちだけで胸がいっぱいです。ですが……金貨千枚では、我が家の魂を手放すには、どうしても躊躇いが残るのです。不躾なお願いなのは百も承知ですが、なんとか五千枚で買い取ってはいただけないでしょうか。それだけあれば、我が家は再興できるのです」


(はぁ!? 冗談じゃないわ、厚かましい没落貴族め!)


アヴァリスは内心でギルバートの強欲さを鼻で笑った。同時に、ヨハンナ夫人があっさりとその金額を呑んでしまわないか、気が気ではない。いくらお金が余っているからといって、そんな馬鹿げた取引に付き合う必要などないのだ。


もうこれ以上、この茶番に付き合いきれない。アヴァリスは苛立ちを押し殺しながら、もう一度あの古ぼけた絵を冷ややかな目で見つめた。


その時、雲間から漏れた一筋の陽光が、窓を通して肖像画の剥げかけた額縁の隙間を鋭く照らし出した。


(……あら?)


アヴァリスの目が細くなる。

息を、飲んだ。


変色したニスの下、絵の端のほんの小さな亀裂から、信じられないほど鮮やかな、深く吸い込まれるような「青」がほんの数ミリだけ覗いている。光の角度がほんの少しでも変われば、見えなかったかもしれない――そのくらい、儚い一瞬の輝きだった。


心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。


アヴァリスは元公爵令嬢である。幼い頃、父の書斎に飾られた宗教画の前で、家庭教師から色彩の見分け方を叩き込まれた記憶が蘇る。「本物の青は、光を吸い込むのよ。安物の顔料は、光をただ跳ね返すだけ」――あの声が、耳の奥で鮮明に再生された。


間違いない。あの深みと輝きは、金よりも高価とされる聖なる絵の具、天然のラピスラズリからしか作れない「ウルトラマリン」だ。


(どうしてこんな安物の肖像画の下地から、ウルトラマリンが覗いているの……? まさか、これは『二重絵』!?)


世の中には、戦火や略奪から不朽の名作を守るため、あるいは密輸するために、貴重な名画の上にわざと下手な絵を重ねて隠す手法がある。


心臓の音が、自分の耳にまで聞こえそうなほど大きく響いていた。


(ブラック伯爵は市場価値がないと言った。つまり、あの自称目利きも、この下層に眠る本物の価値には気づいていない! ギルバートたちが五千枚と言い張るのも、先祖代々の言い伝えで「この絵には物凄い価値がある」とだけ知っているからだわ!)


もしこれが本当の二重絵なら、金貨五千枚どころか、王都のオークションにかければ数万枚、いや王族が家宝にするレベルの値段がつく。


指先が震え出すのを感じ、アヴァリスは扇子を握る手にぐっと力を込めた。今、この場でこの高揚を顔に出せば、すべてが台無しだ。聖職者――そのぶ厚い仮面の下で、彼女は必死に興奮を押し殺した。


「まあ、皆様、落ち着きなさい。神聖な売買をこのような場所で急ぐべきではありませんわ」


声が上ずらないよう、慎重に言葉を紡ぐ。ギルバートとヨハンナ夫人が金額を巡ってなおも言い合っている。

この隙を、逃してはならない。


アヴァリスはさりげなく、本当にさりげなく、絵の前へと歩み寄った。心臓が早鐘を打つ中、平静を装って絵を眺めるふりをしながら、長い爪の先を、亀裂の走る絵の端へとそっと近づけていく。


(誰も見ていない……はず。誰も、見ていない)


背後で交わされる会話の声が、やけに遠く聞こえた。もし今、誰かが振り返ったら。もしブラック伯爵のあの鋭い目が、こちらに向いたら――そう思うと、指先の震えが増した。だが、ここで怯んでいる場合ではない。


爪の先が、覗いていたウルトラマリンの縁にわずかに触れる。息を止め、一瞬で、ほんのわずか、粉末を削り取った。


サブリナが、ふと顔を上げた。


アヴァリスの心臓が、跳ねるのを通り越して止まりかけた。だがサブリナの視線は、アヴァリスの手元ではなく、なおも言い争う父親の方へと注がれている。


(……気づかれていない)


安堵の息を、誰にも聞こえないようそっと吐き出す。削り取った微かな粉末を、手の中のハンカチへ、こぼさぬよう慎重に包み込んだ。


「本日のところは、ギルバート様も心の整理がついていないようですし、一度持ち帰って頭を冷やされてはいかがかしら、ヨハンナ様?」


何食わぬ顔で提案すると、ブラック伯爵も「それが賢明でしょう」と同意した。


「そうですわね。ギルバート様、また日を改めて伺いますわ」


ヨハンナ夫人は名残惜しそうにギルバートを見つめ、三人はスウィンデル邸を後にした。


馬車に乗り込んだアヴァリスは、握りしめたハンカチの中の小さな粉末を、まるで心臓そのものであるかのように感じていた。窓の外を流れる景色を眺めながら、彼女はひとり、口元をきつく引き結んだ。


(王都の鑑定士のところへ、一刻も早く…!)


その口角が、抑えきれずに、わずかに吊り上がった。

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