7.美女の相談
ヨハンナ夫人と礼拝堂で出会ってから一ヶ月。
院長室の空気は、以前とは明らかに違う匂いを纏うようになっていた。安物の蝋燭と埃っぽい聖書の匂いに代わって、上等な焼き菓子の甘い香りと、王都でしか手に入らないという茶葉の芳香が漂っている。すべてはヨハンナ夫人が「心の支えになってくださる院長様へ」と、律儀に週三回運んでくる貢物だった。
アヴァリスは最高級の磁器に注がれた紅茶を優雅にすすった。カップの縁に浮かぶ自分の唇の跡すら美しく見えるだろうと確信しながら、目の前で微笑むヨハンナ夫人に慈愛の眼差しを送る。
「ヨハンナ様、本当に見違えるようにお元気になられて。神もあなたのその前向きな姿勢を、さぞお喜びのことでしょう」
「すべては院長様のおかげですわ」
ヨハンナ夫人は喪服の胸に手を当て、深くため息をついた。相変わらず黒一色の装いだが、頬には血色が戻り、声にも張りがある。
「院長様が毎日、私のくだらない身の上話に付き合ってくださり、温かい聖句を授けてくださったからこそ、私は生きる気力を取り戻せました。この街に来て、本当に良かった」
「そう言っていただけると、聖職者冥利に尽きます。あなたの心の傷が癒えることこそ——神の願いですから」
言いながら、アヴァリスは内心でヨハンナ手帳をめくっていた。出会ってから今日でちょうど三十一日目。くだらない身の上話も、もう十七回目を数える。亡き夫との馴れ初め、亡き夫の几帳面な性格、亡き夫が愛用していた懐中時計の話。そろそろ小道具の在庫が切れる頃合いのはずだった。
(元気が戻るのは結構だけれど、肝心のお金の話はいつになったら出てくるのかしら。毎日毎日、恋愛小説の朗読会に付き合わされるこちらの身にもなってほしいわ)
その時、ヨハンナ夫人が待ってましたとばかりに、少し声を潜めてにじり寄ってきた。長椅子の上でカップがかすかに鳴る。
「実は、院長様。これほど心の救いを得たのですもの。私、夫の遺産の大部分を、こちらの修道院へ寄付したいと考えているのです」
来た。
アヴァリスの背筋がぴんと伸びる。表情筋は微塵も動かさぬまま、声だけが一段階、温度を上げた。
「まあ。それはなんと尊いお志でしょう。神もきっと、大いにあなたを祝福されるはずです」
我ながら見事な震え声だと思う。この声の震わせ方を習得するのに、若い頃どれだけ練習したことか。
「ええ。ですが……恥ずかしながら、夫が遺した財産があまりに膨大で、名義変更の手続きや王都の銀行とのやり取りが、ひどく複雑になっておりまして。今すぐに全額を動かすことができませんの。本日は、その寄付の進め方について、ぜひ院長様のお知恵をお借りしたくて」
「名義変更、ですか」
アヴァリスは扇を広げるように、優雅に片手を胸に添えた。
「そういう事務手続きでしたら、元公爵令嬢であるこの私にどうぞお任せくださいな。どのような書類が必要か、いくらでも手配して差し上げますわ」
口では慈愛を語りながら、頭の中ではすでに算盤が高速で弾かれる。未亡人の全財産、修道院の帳簿、そして誰にも見つからない裏口座。三つの数字を足し合わせて、割って、また足し合わせる。目の焦点がわずかに宙をさまよったのを、幸いヨハンナ夫人は気づかなかったらしい。
「ありがとうございます。やはり院長様は頼りになりますわ。では、まずこちらの資産目録をご覧になって……」
ヨハンナ夫人がバッグの留め金を外し、書類の束を取り出そうとした、まさにその瞬間。
院長室の扉が、こんこんと控えめにノックされた。
アヴァリスの片眉がぴくりと上がる。今、いいところだったのに。誰かは知らないが、この扉を叩いた者は、後で修道院の雑務を三倍に増やしてやろうと本気で決意しながら、しかし声だけは平静そのものに整えた。
「何事ですか。今は大切なご相談の最中ですよ」
「も、申し訳ありません、院長!」
入ってきた若い修道女は、扉の隙間から半身だけ覗かせた格好で、怯えながらも必死に言葉を継いだ。
「あの……たいへん高貴なお方が、当院にお越しでして。美術界でたいへん有名で、その美貌でも名高い、ブラック伯爵様が、院長様に至急ご相談したいことがあると、応接室でお待ちです!」
「ブラック伯爵……?」
アヴァリスの頭の中で、算盤の音がぴたりと止まった。若くして広大な領地を継ぎ、絵画の目利きとしては王都の社交界でも一目置かれているという貴族の名だ。噂では、その審美眼は国王の宮廷画家すら緊張させるという。なぜそんな大物が、修道院に足を運んでくるのか。
「お邪魔のようですから、私はこれで失礼いたしますわ」
ヨハンナ夫人が資産目録をバッグに戻し、腰を浮かせる。
その手を、アヴァリスはやんわりと、しかし逃がすまいという圧のこもった力で押しとどめた。
「いいえ、ヨハンナ様。どうぞそのままで」
美術通の伯爵と、大富豪の未亡人。この二枚の切り札が、示し合わせたわけでもないのに同じ日に同じ部屋へ転がり込んできた。こんな偶然があってたまるかと訝しむ理性を、アヴァリスは紅茶と一緒に飲み下した。——この二人を同じ部屋に留め置いておけば、何かしら美味しい話が転がり込む。そんな気がする。
「伯爵をお通ししなさい」
修道女が一礼して下がると、アヴァリスは慌ただしく襟元を整え、鏡代わりの銀の盆に自分の顔を映して微笑みの角度を確認した。聖職者らしい清貧の笑みと、貴族相手に映える上品な笑みは、口角の上げ幅が絶妙に違う。
蜘蛛の巣を張り替える暇もないまま、また新しい獲物が、みずから羽を広げて飛び込んでこようとしていた。




