18.祈りの日々の始まり
修道院の院長室に、冷ややかな沈黙が満ちる。
デスクを挟んでアヴァリスと対峙しているのは、王都の聖堂から派遣されてきた年配の監察官だった。その手元には、厚みのある数枚の書類が並べられている。窓から差し込む午後の光だけが、やけに明るく、この場にそぐわない。
「アヴァリス院長。残念なお知らせをしなければなりません。既にご存知でしょうが、あなたのご実家である公爵家が、王都での事業の失敗により、すべての爵位と財産を没収されています」
「ええ、存じておりますわ」
アヴァリスは俯いた。実家の威光があってこその、この修道院長の座である。分かりきっていたはずのことなのに、こうして改めて言葉にされると、胸の奥がすうっと冷えていくのを感じた。顔色を失う彼女に対し、監察官は容赦なく次の書類を開いた。
「さらに困ったことに、あなたがこれまで行ってきた不適切な行いについて、ここの修道女から連名で詳細な告発状が届いております。年下や立場の弱い修道女たちに対する過度な嫌がらせ、理不尽な懲罰、日常的な暴言……どれも目を覆いたくなる内容ばかりです」
「そんなものは言いがかりです! 私が彼女たちを厳しく指導していたのは、すべて神の教えに従わせるためで……」
声が、自分でも情けないほど上ずった。
「弁明は無用です」
監察官の声は、氷のように平坦だった。
「実家の威光を失い、さらに下で働く者たちからの信頼も完全に失った者を、この歴史ある修道院の長としておくわけにはいきません。本日をもって、あなたの院長職を解任します」
その一言が、アヴァリスの中の何かを完全に折った。膝から力が抜け、椅子の肘掛けにすがりつくようにして、崩れ落ちるのをかろうじて堪える。だが、監察官の提示した処分はそれだけにとどまらなかった。
「ただちに南の果ての村の修道院へ向かっていただきます。そこで一介の修道女として、己の傲慢さを省みなさい」
「南の小村……? あんな、畑と小川しかない田舎へ行けとおっしゃるのですか!?」
そこは温暖な気候で一年中穏やかな風が吹き、人々が素朴に暮らす平和な土地だ。身持ちの固い貧乏修道女たちが細々と暮らしており、肥えた富豪もいなければ、着服できるような寄付金など銅貨一枚すら集まらない。
(あんな退屈な場所で、どうやって美味しいワインを調達できるというの……!?)
反論しようと口を開きかけた瞬間、胸の奥から冷たい悪寒が駆け上がってくる。
(待って……もしここで下手に暴れて本格的な再調査をされたら……横領のことがバレてしまう……!)
そう、横領自体はまだ露呈していないのだ。もしそれが発覚すれば、左遷どころか即座に王都の地下牢へぶち込まれ、一生光を見ることすら叶わなくなる。喉の奥に、酸っぱいものがせり上がってくるような感覚があった。
(大人しく従うしかない……。横領がバレていないだけ、まだマシなのだから……)
アヴァリスは震える唇を噛み締め、悔しさに涙を浮かべながら「承知いたしました」と頭を下げた。その声は、自分でも聞き覚えのないほど小さく、弱々しかった。
暖かな陽気が差し込む午後、修道院の正門前に、ガタガタと音を立てる一台の粗末な小型馬車が停まっていた。
アヴァリスの手元にあるのは、使い古した小さな鞄がひとつだけ。贅沢な院長服は没収され、ゴワゴワとした灰色の修道服を身にまとっている。肌に触れる粗い生地の感触が、これまでの暮らしとの落差を否応なく突きつけてくる。
門の周囲には、これまでアヴァリスに散々虐げられてきた修道女たちが集まっていた。彼女たちの顔には、去っていく前院長への哀れみなど欠片もない。
「ごきげんよう、アヴァリス様。南の修道院はとても気候が良いそうですから、日差しを浴びてゆっくりとお過ごしくださいね」
「あちらでは、毎日お野菜を育てるのが日課だそうですよ。贅沢なワインもドレスもないけれど、お体に優しくて素晴らしい学びになりますね」
クスクスという忍び笑いと、あからさまな嘲笑が、心地よい春風に混じってアヴァリスの耳に突き刺さる。かつて自分が彼女たちに浴びせてきた言葉が、そのまま何倍にもなって返ってくるようだった。
「くっ……おのれ、生意気な小娘どもが……!」
アヴァリスは怒りに震えながら馬車に乗り込み、乱暴に扉を閉めた。だがその怒りは長くは続かず、扉を閉めた瞬間、堰を切ったように虚しさが押し寄せてくる。
ガタリと馬車が動き出す。窓の外から見送る修道女たちの清々したような笑顔が遠ざかっていく。アヴァリスはその光景から、思わず目を逸らした。
馬車の硬い座席に揺られながら、アヴァリスは自らの膝を強く抱きしめた。
実家の財産も、自分の地位も、華やかな生活も、すべてを失った。待っているのは、気候だけが無駄に穏やかで、何の娯楽も刺激もない、果てしなく退屈な日々だ。
だが、それ以上に彼女の心を苛むのは、消えることのない底なしの恐怖だった。
(横領した金貨……あれがいつバレるかしら……。もし新しい院長が金庫の帳簿を精査したら? 査察官が不審に思って追いかけてきたら……? その瞬間に、私の人生は完全に終わる……!)
一度浮かんだその想像は、振り払おうとしても振り払えなかった。田舎道を這うようにゆっくりと進む馬車の車輪の音までもが、まるで追手の足音のように聞こえてくる。
ぽかぽかと温かい日差しが馬車に降り注ぐ中、アヴァリスの背中だけには冷や汗が流れていた。
これからは一生、いつ追手が来るかもわからない恐怖に怯え、びくびくしながら、長閑すぎる田舎でひっそり生きていかなければならない。かつて誰もがひれ伏した院長の座も、贅を尽くした食卓も、もう二度と戻ってこない。
「嫌……嫌よ……! どうして私がこんな目に……!」
のんびりとした風景の中、アヴァリスはガタガタと体を震わせ、終わりのない恐怖の旅路へと引きずられていくのだった。




