16.騙し絵
無惨に削り取られ、ただの白い布地へと変わり果てた木枠を前に、アヴァリスの脳裏には怒りと恐怖が交互に渦巻いていた。
「騙された……! あの没落貴族ども、私を嵌めたのね!?」
奪われたのは修道院の金庫から内密に持ち出した金貨二千枚。これが発覚すれば、院長の地位どころか、自身の破滅は免れない。指先から血の気が引き、代わりに煮えたぎるような怒りが全身を駆け巡った。アヴァリスは怒髪天を突く勢いで白い木枠をひったくると、髪を振り乱したまま修道院を飛び出し、スウィンデル邸へと馬車を走らせた。
馬車が揺れるたび、頭の中では「返せ」「殺してやりたい」「いいえ、まずは金を取り戻すのが先」という感情がぐるぐると入れ替わり、どれ一つとして落ち着いてはくれなかった。
「開けなさい! 出てきなさい、ギルバート! サブリナ!」
スウィンデル邸の応接室の扉を文字通り蹴り開けるようにして乱入したアヴァリスは、お茶を愉しんでいたギルバートとサブリナの前に、件の木枠を叩きつけた。木枠が机の上で跳ね、ソーサーのカップがカタカタと音を立てる。
「よくも私を騙してくれたわね! 二重絵だと偽って、ただの白いキャンバスを金貨二千枚で売りつけるなんて、希代の詐欺師よ! 今すぐあの金貨を返しなさい!」
激昂するアヴァリスに対し、ギルバートは驚くほど冷静に、いや、むしろ退屈そうに紅茶のカップをソーサーに戻した。その隣に座るサブリナも、琥珀色の瞳に冷淡な光を宿してアヴァリスを見つめている。
「院長様、いきなり押し入ってきて何を仰るのかと思えば」
サブリナは眉一つ動かさず、むしろ心外だとでも言いたげに小さく首を傾げてみせた。
「二重絵? 私どもは最初から、それは『四代前の当主の肖像画』だとお伝えしていたはずですが。それ以上でも以下でもございませんわ」
その落ち着き払った態度に、アヴァリスの怒りは行き場を失い、代わりに得体の知れない不安がじわりと胸を侵食し始めた。
「そうですとも」と、ギルバートが深くため息をつく。「我が家の魂とも言える大切な絵を、あなたが『どうしても譲れ』と夜分に押しかけて持って行った。それを、あろうことかこんな無惨に削り取って……先祖への冒涜も甚だしい」
「白々しい! 嘘を吐くんじゃないわよ!」
アヴァリスは机を叩いた。手のひらが痛むほど強く。
「あの絵の端には、本物のウルトラマリンが塗られていたわ! ブラック伯爵の鑑定でも、二重絵の可能性が極めて高いと証明されていたのよ!」
「伯爵の鑑定? いつそんなことをされたのですか。所有者の私共に無断で」
サブリナはまっすぐアヴァリスを見た。
「私どもは美術の知識などございません。絵の具に何が使われていようと知ったことではありませんわ。確かなのは、あなたが我が家の宝を持ち去り、それを自ら破壊したという事実だけ。そんな状態にされたものを、いまさら買い戻せと言われても応じられるわけがありません」
一言一言が、アヴァリスの胸に杭のように打ち込まれていく。反論しようにも、確かに絵を持ち去ったのは自分であり、削らせたのも自分だ。喉の奥で、言葉が行き場を失って渦を巻いた。
「おのれ……!」
怒りだけが残った。理屈で敵わないなら、力尽くで押し通すしかない。
「認めないというのなら、街の衛兵を呼んであんたたちを告発してやるわ! 詐欺罪で牢屋にぶち込まれたいようね!」
アヴァリスが顔を真っ赤にして掴みかかろうとしたその時、サブリナが静かに立ち上がった。その佇まいには、先ほどまでの冷ややかさを超えた、圧倒的な威圧感があった。
「どうぞ、お好きなように告訴なさいませ、院長様」
声は小さいのに、なぜか室内の空気すべてを支配しているようだった。
「そうなれば公の場で調査が入りますわね。教会の上層部にも詳しく仲裁に入ってもらうことになりますけれど――よろしいですか?」
「っ……!?」
その一言に、アヴァリスは頭から冷水を浴びせられたような感覚に襲われた。
(教会の、上層部……。調査……。もしそんなことになれば――)
脳裏に、地下金庫の空になった棚と、机の上に積まれたままの空袋の光景が、鮮やかに蘇る。あの金貨二千枚の出所を、誰かに問い詰められたら。「困窮した信者を救う慈善活動のための特別資金」などという名目が、一体どこまで通用するというのか。
全身から、音を立てて力が抜けていくのが分かった。ついさっきまで燃え盛っていた怒りが、瞬く間に凍りつき、代わりに底なしの恐怖が這い上がってくる。
言葉が喉に仕え、口を金魚のように開閉させることしかできない。何か言い返さなければ、この場をどうにか繕わなければ――そう思うのに、頭の中は真っ白で、何一つ言葉が出てこなかった。
強欲な院長の背中に、ドッと嫌な汗が流れ落ちていった。
サブリナは、追い詰めた獲物を眺めるような静かな目で、なおもじっとアヴァリスを見つめ続けている。応接室の柱時計が時を刻む音だけが、やけに大きく響いていた。




