15.肖像画を削れ!
「金貨二千枚……。これほどまでの大金をご用意いただけるなんて。これほどの施し、神の深い慈悲以外の何物でもありません」
ギルバートは机の上に並んだ麻袋を見つめ、まるで光り輝く奇跡でも目撃したかのように両手を固く組んだ。その整った顔立ちには、純粋な感動の涙がじわじわとたまっている。
「お待ちになって、ギルバート様! 騙されてはなりませんわ!」
ヨハンナ夫人が甲高い声を上げて椅子から身を乗り出し、アヴァリスを睨みつけた。
「院長様の仰ることはあまりに強引で、身勝手ですわ。私だって、スウィンデル家の皆様の再興のためであれば、王都の銀行に預けてある夫の遺産から、さらに多くの資金を融通することだって今からすぐに……」
「いいえ、ヨハンナ様。銀行からの融通など、手続きに一体何週間かかるか分かったものではありませんわ」
アヴァリスはすかさずその言葉を遮り、扇子を優雅に広げて口元を隠しながら、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「今、この瞬間に目の前にある現金の重み、これこそが明日のパンにも困っているスウィンデル家を確実に救うのです。ギルバート様、さあ、迷う時間は一分一秒たりともございません。ヨハンナ様との不確かな交渉は今すぐ白紙に戻し、この私と正式な契約を交わしましょう」
アヴァリスは懐から、あらかじめ用意していた修道院公認の売買契約書を素早く取り出し、机の上に勢いよく広げた。そこには『困窮信者への慈善援助の対価として、スウィンデル家の一切の美術品(該当の肖像画を含む)の完全なる所有権を、当修道院に譲渡する』と、もっともらしい名目でびっしりと書かれている。
「お父様……本当に、本当にあの肖像画を手放してしまうのですか?」
サブリナが悲痛な声を上げ、ギルバートの服の袖を強く引いた。その美しい琥珀色の瞳には、先祖代々の宝を失うことへの恐怖と絶望が浮かんでいる。
「サブリナ、許しておくれ。だが、我が家の現状を考えれば背に腹は代えられないのだ。これだけの金貨があれば、お前も、そしてまだ幼いシドニーも、もう二度とひもじい思いをしなくて済むのだから……すべては家族のためなのだよ」
ギルバートは苦渋の決断を下したように補足すると、床に落ちていたペンを拾い上げ、アヴァリスが差し出した契約書の署名欄に、震える手で自身のサインを記入した。
「――よし、これにて取引成立ですわ!」
アヴァリスはギルバートがペンを置いた瞬間に契約書を引ったくり、懐深くへと大切に仕舞い込んだ。胸の鼓動が興奮で限界まで跳ね上がる。これで、あのウルトラマリンが眠る歴史的名画は、完全に彼女のものになったのだ。
「院長様、あなたという人は……! 聖職者の皮を被った欲の塊ですわ! 私はもう、この街の修道院も神も信じることはできませんわ!」
ヨハンナ夫人は悔し涙を激しく流しながら、ハンカチで顔を覆って応接室を走り去っていった。アヴァリスは心の中で「おーほほほ! ざまあみなさい!」と大笑いしていた。
「ブラック伯爵、何をそこでぼうっとしているのです。さあ、我が修道院の『新しい宝物』を壁から下ろしなさい。今すぐ馬車へ運ぶのです!」
「仰せのままに、院長」
ブラック伯爵は、表情を一切崩さぬまま優雅に一礼すると、壁に掛けられた古ぼけた肖像画を慎重に取り外した。アヴァリスはその絵を奪うように両腕で抱え込み、完全なる勝利の余韻に浸りながら、夜のスウィンデル邸を後にするのだった。
翌朝、アヴァリスは修道院の院長室に、ブラック伯爵が紹介してくれた腕利きの優秀な修復師を極秘裏に呼び出していた。
「いいですか、この表面の古ぼけた汚い肖像画を、慎重に、かつ迅速に削り落とすのです。下層には世界を揺るがす名画が眠っているはずよ。慎重にやりなさい!」
「へえ、お任せください、院長様。わしの腕にかかれば、どんな隠された絵だって綺麗に浮かび上がらせてみせますよ」
職人は不敵に笑うと、特殊な溶剤と細いヘラを使い、肖像画の表面の絵の具を丁寧にかき落とし始めた。アヴァリスはすぐ横にピタリと張り付き、固唾を呑んでその作業を見守る。金貨数万枚への変貌の瞬間が、すぐそこに迫っているのだ。
ガリ、ガリ、と静かな室内に絵の具が削れる音だけが響く。変色したニスが剥がれ、表面の男性の横顔が少しずつ消えていく。
「……ねえ、まだかしら? そろそろあの鮮やかな青が見えてきてもいい頃でしょう?」
「おかしいですな……。普通なら、この層の下に別の下地があるはずなんですがねえ……」
職人は首をひねりながら、さらにヘラを動かす。しかし、削り落とされた絵の具の下から現れたのは、アヴァリスが期待していた眩いウルトラマリンの色彩ではなかった。
そこにあったのは、何の手も加えられていない真っ白なキャンバスだった。
「え……? 嘘でしょう? もっと奥よ、もっと深く削りなさい!」
「いや、院長様、もうこれ以上削ったら布地そのものが破れちまいます。何もありませんよ。この絵、白いキャンバスの上に、安物の絵の具が乗っていただけだ」
職人がヘラを置くと、そこには無惨に削り取られ、ただの白い四角形と化した木枠が転がっていた。
アヴァリスは頭を金槌で殴られたような衝撃を受け、その場にへたり込んだ。全身の血の気が引き、手足がガタガタと震え出す。
「……ウルトラマリンはどこよ!? なぜ何もないの!? 私の金貨三千枚はどこへ行ったのよォォォ!?」
静まり返った院長室に、強欲な院長の魂からの絶望の絶叫が、虚しく響き渡るのだった。
(第15話:1973文字)
15.肖像画を削れ!
「金貨三千枚……。これほどまでの大金を即金でご用意いただけるなんて。これほどの施し、神の深い慈悲以外の何物でもありません」
ギルバートは机の上に並んだ麻袋を見つめ、まるで光り輝く奇跡でも目撃したかのように両手を固く組んだ。その整った顔立ちの瞳には、深く純粋な感動の涙がじわじわとたまっている。
「お待ちになって、ギルバート様! 騙されてはなりませんわ!」
ヨハンナ夫人が甲高い声を上げて椅子から身を乗り出し、アヴァリスを睨みつけた。
「院長様の仰ることはあまりに強引で、身勝手ですわ。私だって、スウィンデル家の皆様の再興のためであれば、王都の銀行に預けてある夫の遺産から、さらに多くの資金を融通することだって今からすぐに……」
「いいえ、ヨハンナ様。銀行からの融通など、手続きに一体何週間かかるか分かったものではありませんわ」
アヴァリスはすかさずその言葉を遮り、扇子を優雅に広げて口元を隠しながら、勝ち誇った笑みを浮かべた。心臓はまだ早鐘を打っていたが、勝利はもう目の前だ。
「今、この瞬間に目の前にある現金の重み、これこそが明日のパンにも困っているスウィンデル家を確実に救うのです。ギルバート様、さあ、迷う時間は一分一秒たりともございません。ヨハンナ様との不確かな交渉は今すぐ白紙に戻し、この私と正式な契約を交わしましょう」
アヴァリスは懐から、あらかじめ用意していた修道院公認の売買契約書を素早く取り出し、机の上に勢いよく広げた。そこには『困窮信者への慈善援助の対価として、スウィンデル家の一切の美術品(該当の肖像画を含む)の完全なる所有権を、当修道院に譲渡する』と、もっともらしい名目でびっしりと書かれている。
「お父様……本当に、本当にあの肖像画を手放してしまうのですか?」
サブリナが悲痛な声を上げ、ギルバートの服の袖を強く引いた。その美しい琥珀色の瞳には、先祖代々の宝を失うことへの恐怖と絶望が浮かんでいる。
「サブリナ、許しておくれ。だが、我が家の現状を考えれば背に腹は代えられないのだ。これだけの金貨があれば、お前も、そしてまだ幼いシドニーも、もう二度とひもじい思いをしなくて済むのだから……すべては家族のためなのだよ」
ギルバートは苦渋の決断を下したように補足すると、床に落ちていたペンを拾い上げ、アヴァリスが差し出した契約書の署名欄に、震える手で自身のサインを記入した。
その一筆一筆を、アヴァリスは息を詰めて見守った。もう少し、もう少しで――。
「――よし、これにて取引成立ですわ!」
アヴァリスはギルバートがペンを置いた瞬間に契約書を引ったくり、懐深くへと大切に仕舞い込んだ。胸の鼓動が興奮で限界まで跳ね上がる。これで、あのウルトラマリンが眠る歴史的名画は、完全に彼女のものになったのだ。頭の中では、すでに数万枚の金貨が輝かしい音を立てて降り注いでいた。
「院長様、あなたという人は……! 聖職者の皮を被った欲の塊ですわ! 私はもう、この街の修道院も神も信じることはできませんわ!」
ヨハンナ夫人は悔し涙を激しく流しながら、ハンカチで顔を覆って応接室を走り去っていった。
(おーほほほ! ざまあみなさい!)
アヴァリスは心の中で大笑いしながら、勝利の余韻に酔いしれていた。
「ブラック伯爵、何をそこでぼうっとしているのです。さあ、我が修道院の『新しい宝物』を壁から下ろしなさい。今すぐ馬車へ運ぶのです!」
「仰せのままに、院長」
ブラック伯爵は、表情を一切崩さぬまま優雅に一礼すると、壁に掛けられた古ぼけた肖像画を慎重に取り外した。アヴァリスはその絵を奪うように両腕で抱え込み、完全なる勝利の余韻に浸りながら、夜のスウィンデル邸を後にするのだった。
翌朝、アヴァリスは修道院の院長室に、ブラック伯爵が紹介してくれた腕利きの優秀な修復師を極秘裏に呼び出していた。眠れぬ夜を過ごした彼女の目の下には、隠しきれない隈が浮かんでいる。それでも興奮で頬は上気していた。
「いいですか、この表面の古ぼけた汚い肖像画を、慎重に、かつ迅速に削り落とすのです。下層には世界を揺るがす名画が眠っているはずよ。慎重にやりなさい!」
「へえ、お任せください、院長様。わしの腕にかかれば、どんな隠された絵だって綺麗に浮かび上がらせてみせますよ」
職人は不敵に笑うと、特殊な溶剤と細いヘラを使い、肖像画の表面の絵の具を丁寧にかき落とし始めた。アヴァリスはすぐ横にピタリと張り付き、固唾を呑んでその作業を見守る。金貨数万枚への変貌の瞬間が、すぐそこに迫っているのだ。
ガリ、ガリ、と静かな室内に絵の具が削れる音だけが響く。変色したニスが剥がれ、表面の男性の横顔が少しずつ消えていく。
「まだかしら……ほら、そろそろ、そろそろよ……」
アヴァリスは扇子を握る手に汗をかきながら、身を乗り出した。心臓が痛いくらいに脈打っている。
「……ねえ、まだかしら? そろそろあの鮮やかな青が見えてきてもいい頃でしょう?」
「へえ、もう少しですな」
職人は鼻歌交じりに、まるで畑の草むしりでもしているかのような気楽さでヘラを動かし続けている。その呑気な様子が、アヴァリスの張り詰めた神経をさらに逆撫でした。
「おかしいですな……。普通なら、この層の下に別の下地があるはずなんですがねえ……」
職人がのんびりとした声で首をひねる。その言葉に、アヴァリスの胸の奥で、小さな、まだ名前のつかない不安がざわりと動いた。
(気のせいよ。この男は経験不足なだけ。もっと深く削れば、きっと――)
しかし、削り落とされた絵の具の下から現れたのは、アヴァリスが期待していた眩いウルトラマリンの色彩ではなかった。
そこにあったのは、何の手も加えられていない真っ白なキャンバスだった。
一瞬、アヴァリスの思考が完全に停止した。目の前の白い布地を、何かの見間違いだと思おうとした。だが、何度瞬きをしても、そこにあるのはただの白だけだった。
「え……? 嘘でしょう? もっと奥よ、もっと深く削りなさい!」
声が裏返った。両手が、無意識のうちに職人の腕を掴んでいた。
「いや、院長様、もうこれ以上削ったら布地そのものが破れちまいます」
職人は困ったように頭を掻きながら、それでもどこか他人事のような、拍子抜けするほど平坦な口調で言葉を続けた。
「何もありませんよ。この絵、ただ白いキャンバスの上に、安物の絵の具が乗っていただけだ」
職人がヘラを置くと、そこには無惨に削り取られ、ただの白い四角形と化した木枠が転がっていた。彼はやれやれとばかりに肩をすくめ、道具を片付け始めている。まるで、たった今この部屋で何かとてつもない悲劇が起きたことになど、微塵も気づいていないかのように。
その落差が、アヴァリスの絶望をさらに深く抉った。
頭の中で、この一週間のすべてが音を立てて崩れ落ちていく。
視界がぐらりと揺れた。全身の血の気が引き、手足がガタガタと震え出す。喉の奥から、悲鳴とも呻きともつかない声が漏れた。
「……ウルトラマリンはどこよ!? なぜ何もないの!?」
床にへたり込んだアヴァリスの目に、机の上に積まれたままの、もう戻ってこない金貨二千枚分の空袋が映る。
「私の金貨はどこへ行ったのよォォォ!?」
静まり返った院長室に、強欲な院長の魂からの絶望の絶叫が、虚しく響き渡るのだった。職人だけが、その絶叫を他人事のように眺めながら、のんびりと荷物をまとめて部屋を後にした。




